2004年1月 5日

江戸の戯作者と山蟻

 内田百間『冥途』所収の「山東京傳」(1917)は、まったく意味不明な随筆(?)である。「私」が江戸の戯作者、山東京傳(さんとう・きょうでん、1761-1816)の書生になり、玄関先で丸薬を作る。丸薬をねらった山蟻を家に上げようとしたことがきっかけで、私は山東京傳の家を追われる、といった話。たった4ページの超短編である。
 ここでの読む快楽は、やはり文字通りに受け取ることである。何かを象徴しているのではないかとか、心の動きを読むことをやめ、「文」をそのまま味わえば、違った快感がやってくる。

 まず注目すべきは、私の山東京傳への尊敬の念の深さと不可解さである。「崇拝して書生」になったとか、そばにいられて「うれしい」と書かれている以上、私は山東京傳を崇拝していることに間違いはない。それを証明するように、同じ部屋で食事をとる際、箸をつけていいものかと、しゅん巡する私の遠慮と気配りは、文字通り「崇拝」するものの姿である。
 一方、私が丸薬をねる描写や、丸薬をねらう「黒い漆をぬった様に光沢のいい山蟻」の描写は、即物的で、なまめかしい感情を感じさせる。緊張と粘着的な相互作用。
 そして、「出て行け」といって私は、追い出される。山蟻と小さな人間を誤認したことが理由だ。結局、山東京傳と丸薬の関係は不明なまま終る。読み終っても、なんとも後味の悪い作品だが、これが百間の魅力である。
 山東京傳を、百間が崇拝した夏目漱石に重ね合わせる安易な読み方はやめ、そのままの不可解さを受け止めよう。

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