2004年1月21日

フーコー『自己のテクノロジー』(岩波現代文庫)を読んだ

 上下関係に、それも優位な立場に基づいて話すことは、気楽であり、簡単である。劣位な立場であろうとも、それはそれではっきりしている。そこに権力関係が貫通している限り、その中にいる限り、話すこと、書くことは「真理」を形成してくれる。
 ところが、話は逆で、「真理」を話し、書くことがヒエラルキーを生むのである。予め、統一的なマクロ権力があるわけではない。いたるところに偏在するミクロ権力を暴くことが、フーコーの著作で示されたことであった。
 西欧近代における「主体」の問題を考えることで、言い換えれば、いかにして主体が構成されるのかを考えることで、言ってみれば革命の可能性を求めていたのかもしれない。もちろん、現政府を奪取することでそれで革命は達成するという通俗的な革命理解は、最初からしりぞけられている。
 この本のなかで示されているが、「人々が自分自身にかんする認識を展開する」ために用いる実践上の母体として四つのテクノロジーをあげている。1生産のテクノロジー 2記号体系のテクノロジー 3権力のテクノロジー 4自己のテクノロジー がそれである。そして、後者ふたつが、フーコーの主な関心事であり、彼はこのふたつのつながりを「支配管理関係(governmentality )」と呼ぶ。

 権力のテクノロジーに関して、もっとも有名で分かりやすいものは、「一望監視方式」パノプティコンであろう。監獄制度において囚人を収容する建築物であるパノプティコンの仕組みを簡単に説明しておくと、周辺に環状の建物があり、中央にはいくつかの大きな窓が穿たれている塔がある。周辺の建物は独房に分けられ、外を向いている方と内側に窓があり、内側の窓は、塔の窓に対応し、外を向いている窓は、独房の隅々まで光を入れる。塔からは、独房のなかにいる人間を、逆光の効果によって、独房に閉じこめられたシルエットとして見ることができる。そしてこれが監視装置として働くために塔から監守が各独房を見ている可能性があるだけでよい。なぜなら、囚人からは監視塔の内部は見えないのであり、常に囚人は一方的に「見られる存在」となっているからだ。
 ところが、こうした図式は、監獄だけでなく学校や工場、軍隊、病院、いたるところで見ることができる。授業中に、日頃から怒ってばかりいる恐い教師が、黙って座っていろと命じてから、教室のいちばん後ろに立ち、学生の視界に入らないときのことを考えよ。その時、教師がそっと教室から出ていったとしても学生は黙って座っているだろう。何もすることはないが、動いてはいけない学生にとって唯一の自由は内面にあり、空想をめぐらすだけである。このように、権力関係は結果としてイデオロギーを形成するにしても、その実践の際には、まったく物理的な構造によって営まれる。怒ってばかりいる理不尽な教師に抗議することはできても、後ろに立つことを拒否することは難しい。
 こうして、権力の目によってすべてを奪い取られた囚人(学生)にとって、内面が隠れ家となっていく。しかし、こうしてできた内面性(自己の意識、主観性)は、権力との関係のなかで形成されたのであり、権力関係が刻印されている。だが、一方でこうした抑圧的な主体化があると同時に、自らいわば自主的に主体化をおこなうことがある。それが、自己のテクノロジーである。

 フーコーは、『性の歴史1 知への意志』(1976)から『2 快楽の活用』『3 自己への配慮』(1984)の8年間で、この自己のテクノロジー、自己の問題系へと飛躍する。ドゥルーズの言い方を借りれば、言表可能なもの(言葉)と可視的なもの(物)との絡み合い、つまり「知」の地層あるいは歴史的形成を分析すること、そして地層化されないもの、戦略としての権力を分析すること(外の思考)から、褶曲した襞(主体化)の分析へと「線」を引いたのだ。そしてこの本は、この間の1982年10月にアメリカ合衆国ヴァーモント大学で開催された研究セミナーにおけるフーコーの講義、会見記、セミナー参加者の論文五編が収められている。
 権力のテクノロジーが、いわば行政管理であり、生きていて活動的で生産的な人間に注意をはらうことであるならば、それは、「法律(言表)によってではなく、個人の行為のなかへ特別な仕方で恒常的に積極的に介入することによって、統治する」。法的主体ではなく、生活の喜びや生命こそが、行政管理の客体なのである。
 そしてそのためには、単なる抑圧的な図式では把握しきれないことになる。それに、権力関係の刻印された内面から逃れなくてはならない。そこで、考えるべきことが、「表明された感情とか思想とか人が経験するかもしれない欲望とか、自己の内部に、あらゆる隠された感情や魂のあらゆる動きや偽りの姿のもとに隠されたあらゆる欲求を探したい衝動」である。このとき、フーコーはそれまでの古典主義時代から近代までの時間的スパンを拡大し、ギリシャ・ローマ哲学、4、5世紀のキリスト教求道生活にまで立ち戻る。そして、そこでの「自己のテクノロジー」を考察することになる。

 「自己への配慮」。そして、これは「国家への配慮」と密接に結びついているわけだが、これと「自己の認識」との違いを明確にしておかないと、単なる主観性に重きをなす近代哲学に陥ってしまう。自己放棄が救いの条件であるキリスト教道徳の伝統のなかにいる西欧近代においては、自己を認識することが逆説的に、自己放棄にいたる道であった。そして、同時に他者との関係において社会道徳を要求する伝統のなかにもいる。しかし、ギリシャ・ローマの文化において自己の認識は、自己への配慮の結果なのであった。言い換えれば、近代における自己の認識は、自己への配慮を見えなくしてしまったのである。自分がなんであるかという問いは、自己というものを支えているのは何かという問いを隠蔽してしまう。
 そして、フーコーは、この自己との関係において要求される道徳、倫理に、あまりにも権力関係に囚われすぎている現状を変革する可能性を見いだしたのだ。生存の美学。生成する自己との関係。
 というより、そう読むべきではないか。権力の拡散した中心が最初から持つ抵抗点、それらを結ぶ抵抗の横断的な線を引くために、それも実践的に引くことは、ぼくたちの仕事である。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kenyama.net/mt-tb.cgi/26