百間の「木霊」を読んで妄想を逞しくしよう
内田百間の「木霊」(『冥途』所収、1921年発表)は、全集でもわずか3ページの小品である。子どもを背負って泣きながら歩く女のあとを、「私」が追いかけて歩くだけの話である。私は、家に戻ろうとはせず暗い夜道を歩き続けてしまう。
妻子が家で待つのを知っていながら、別の女を追いかけている「不倫」なのであろうか。それとも、現在の妻をめとる前に交際した女が、夫を失い、母子家庭になったことを知り、不憫に思い、追いかけているのだろうか。
過去に何らかの関係のあった女が、夢に出てきた、というのが一番分かりやすい説明であろう。末尾には「その恐ろしい暗闇の中に昔の事を思い探って止まなかった」とある。以前関係を持った女であることは間違いないし、背負っている子どもは「私」の子どもかもしれない。
もちろん、百間が実生活でも、熱愛の末結婚した最初の妻を捨て、別の女と同棲を始めたことをもって、この作品の背景を考えることもできる。夜、土手、「水を浴びた様な」など百間タームもそろっている。発表年代から考えて、確かに二人の女で、「ドロドロ」した事件もあったかもしれない。
しかし、ここで注目したいのは、「私」の後ろ、横、前にいる女のことである。後ろに位置するのは家で待つ妻であり、横にいるのは「その時一しょに並んで歩いた女」であり、前にいるのは子どもを背負った女である。時間の前後はともかくとしても、この3人は同一人物だと考えてみた。
後ろの家には子どもが待っていても女はいないのかもしれない。そうすると、前を歩く女は、後ろの家を出て、私とは関係のない子どもをどこかに連れ去るところなのだ。
まさか妻がそんなことをすると信じられない私は、妻の泣き声が、あたかも別人のように聞こえ、妻と以前歩いた場所であることに気づき、「水を浴びた様な気がした」。「木霊」は、音の反響であり、泣き声と足跡の反響を、妻との過去・現在を反響させている、というわけだ。妻に裏切られ、そのことに気づきたくないが気づいてしまった男の悲劇を扱ったのである。
妄想を働かせすぎたようだ。
