2004年2月 7日

内田百間をめぐる断章(3)

 百間は、自らの貨幣観について以下のように記している。


 「百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相にすぎない。或は、更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものではなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。
 実際に就いて考えるに、吾人は決して金を持っていない。少なくとも自分は、金を持たない。金とは、常に、受取る前か、又はつかった後かの観念である。受取る前には、まだ受取っていないから持ってはいない。しかし、金に対する憧憬がある。費った後には、つかってしまったから、もう持っていない。後に残っているものは悔恨である。そうして、この悔恨は、直接に憧憬から続いているのが普通である。それは丁度、時の認識と相似する。過去は直接に未来につながり、現在というものは存在しない。一瞬の間に、その前は過去となりその次ぎは未来である。その一瞬にも、時の長さはなくて、過去と未来はすぐに続いている。幾何学の線のような、幅のない一筋を想像して、それが現在だと思っている。Time is money.金は時の現在の如きものである。そんなものは世の中に存在しない。吾人は所有しない。所有する事は不可能である」(「百鬼園新装」)

 かつて、貨幣の問題について、柄谷行人、岩井克人、浅田彰らが様々な形でお金についての議論が行なわれてきた。ここで驚くべきは、お金は交換されることによってのみお金なのであって、ただ持っているだけでは、次の瞬間に交換できるであろうという「期待」だけしかないので、それはお金ではなく、その期待が、それをお金にしている、つまり「観念上の錯誤」である、という点に百間は今から70年前、1930年にこのことを書いているということだ。
 お金とは何か、が極めて難しい問題であることに、百間は高利貸しとの付き合いに中で身を以て、切実に答えたのであろう。そしてそのことは、百間を神経症の作家とかユーモア作家とラベルを貼ることとは、一切無関係の百間の思想を読む作業だといえよう。
 だが、こうして把握されたお金は、使うこと・借りることにこそ真骨頂があるのであり使うために働いたり(とは言っても、百間が借金のために膨大な量の随筆を書いたから、今こうして楽しめるわけだが)、ましてや蓄めるなどの行為は、百間には考えられない所業なのである。何もないところからお金を生み出し、まだ出来てもいない原稿の稿料をすぐに使ってしまうこと。まさしく錬金術。言うのは簡単だが、実行するのはなかなかしんどい。下手に実行すると、それこそ首をくくらなければならなくなる。当時より、事態はかなり悪化していて「サラ金」などと言うものもあり、殺されてしまうかもしれない。マネーゲームが流行る今日、お金はどんどん実体化していき、それこそが究極の目的になってしまったりもする。
 「日本はお金持ちなのだから返さなくてもいいでしょう」というある債務国の誰だかの発言に見られる通り、借りたもの勝のお金の世界である。その意味で、百間は現代の思想家なのである。

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