2004年2月 8日

大西巨人『深淵』のまっとうさ

大西巨人の上下二巻本『深淵』(光文社、2004)を読んだ。1985年から97年にかけて、12年間の記憶を失った主人公、麻田布満が失われた12年を取り戻し、記憶を失う前と覚醒した以後の「本来の自己」と決着をつける物語だ。何といっても面白い。冤罪事件をめぐる主人公のコミットが中心線となって、物語は展開していく。
 麻田の驚異的な記憶力と論理的思考は、以前ポストした『神聖喜劇』の主人公、東堂太郎と通じるものがあり、かつ場面が現代日本であるだけに、さらに「現実感」をもって読むことができる。
 そして、さらにこの本が単なる娯楽作品としてではなく、冤罪や現代文学、政治、マスコミなど状況へのまっとうな批判になっていることが魅力的である。

 政治や企業が「構造改革」だ「リストラ」だと新しい言葉で、単なる首切り、自らの責任を隠ぺいしているだけの現状を、まず当たり前なことから批判する大西の姿勢に共感する。そして、作中人物にボーダーレスな文学状況について「最も生々しく「悪平等」ないし「玉石混淆積極的是認」を指向・発現している」と語らせ、「世俗の金持ち崇拝・貧乏人蔑視的な風潮が、文学的世界にようやく行き渡り、作家・作品の価値が専門家相互の間でさえも、ただ仕事量と収入の多寡によってのみ計られかねない」と記す大西は、極めてまっとうな意見の持ち主である。
 大西は、1952年に発表された評論「俗情との結託」(1952)で今日出海『三木清に於ける人間の研究』について、「封建的・後退的な要素すなわち俗情と結託することによって書かれ、それと結託することによって読まれた」と批判する一方で、野間宏『真空地帯』を「作者の不明、誤解、糞真面目が、結果として俗情に加担しているのであり、またそれによって「俗流大衆路線」の骨絡みを喰らっているのである」と手厳しく批判した。もちろん、作品が「俗情と結託しないから難しく詰まらない」わけでは全くない。俗情は全編に渡って登場するが、結託せずに展開させていく。そして、論理的結論を明示する。その上で読者を引きつけ続ける大西の筆力に感心してしまう。
 ちなみに、大西をマルクス主義者であるといった理由で敬遠することは、単なる「俗情との結託」である。
 さらに、記憶を失った12年間と「本来の自己」との隔絶は、彼岸と此岸の分割を想起させ、文中にも出てくる村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社、1982)や『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』(新潮社、1985)への批評ともなっている。もちろん、大西は村上への期待だ裏切られたことを明記する。
 疲れるが心地よい読後感を抱かせる作品であった。

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