『マルチチュードの文法』は考えさせる楽しい本
パオロ・ヴィルノ(1952-)による『マルチチュードの文法 現代的な生活形式を分析するために』(廣瀬純訳、月曜社、2004)は、いろいろ考えさせられる本だった。講義形式をとっていて、セキュリティや公的なもの、文化産業、労働など、現代社会の様々な側面を分析している極めてまじめなだが、読みやすい本である。哲学が「新しい概念」をつくることであるとすれば、この本は文字通り「哲学書」であろう。
タイトルにある「マルチチュード」という概念は、オランダの哲学者スピノザ(1632-77)に起源をもつ概念で、「群衆」、「多数性」、「多性」などと訳される。最近では、アントニオ・ネグリ(1933-)とマイケル・ハート(1960-)の共著『帝国』(水嶋一憲ら訳、以文社、2003)によって注目をあびた言葉だ。『帝国』は、邦訳が出版される前に話題を呼びすぎ、邦訳が出た頃には熱が冷めてしまったようだったが、その中で重要な位置を占める概念が「マルチチュード」である。
ヴィルノは、ネグリらの「マルチチュード」の捉え方に懐疑的なようだが、現代を分析し、未来を展望するための概念としてほぼ同じような使用法をとっている。人民(people)ではなく、「マルチチュード」にこそ将来の希望がかかっている、というわけだ。組み立て式ラインに代表されるフォーディズム工場の時代が終わり、ポストフォーディズム時代に入って、労働と政治(行動)、思考の相関関係が変容したことや、資本と国家、社会の関係が分析されている。
しかし、考えさせられたのはそのことだけではない。
かつて、工場や職場は「しゃべらない」場所であった。黙々と作業することが、生産性につながっていた。一方、現代の工場(職場)はコミュニケーション行為が仕事の中心になり、「しゃべる」場所になり、労働者として価値はコミュニケーション能力や交渉能力によって計られるようになった。さらに、その延長線上で、現代の仕事の仕方を「名人芸」と分析する。ピアノ演奏者のように、直接的にモノを作るのではなく、その(演奏する)姿を観客に見せることが仕事なのだ。つまり、工場や職場では、直接モノを作るのではなく、周囲の観客に働く姿を見せることの方が重要で、この労働の変容は人々のあり方や思考に大きな影響を与えている、というわけだ。この部分は、会社勤めをしているせいか、「なるほど、そうだったのか!」と考えさせられてしまった。
かつて、80年代半ばの「ニュー・アカデミズム」ブームの頃、小難しい本を一番読んでいたのが広告代理店の社員だったという笑い話(実話?)があったけれど、何かの弾みでこの本を手に取り、中身を「ビジネス書」のように読んでしまう人がいると想像するとたのしい。もちろん、そんなことはないだろうけれど。
