2004年2月19日

百間の「倫理」と「論理」を味わう

 内田百間『冥途』所収の「流木」(1921年、当初「蝦蟇口」として発表)は、道端に落ちていた蝦蟇口を拾ってしまったばっかりに、とんでもない目にあう小話である。
 「私」は、きれいな10円札の入った蝦蟇口を、寂しい士族屋敷のようなところの道端で拾う。警察署に持っていこうとするが、その途中で巡査に見つかり、泥棒と間違えられる捕まるのではないかと不安になる。警察に届ける途中であるという「証拠」はないからだ。

 確かに「証拠」はないけれど、警官がそこまで人を疑うものではないだろう、というのは現在の常識(将来はわからないけれど)で、当時の警察がいかに無謀であったかどうかを考えると不安になっても仕方ない。それに、警察という制度の論理的必然を考えていたのかもしれない。そして、治安維持法が公布されたのは1925年である。
 次に登場するのは「探偵」。もちろん、実際に探偵であるかどうかは「私」の憶測だが、何とかやり過ごす。そして、巡査の調練から逃れるようにして歩くうちに、「男」に呼び止められる。なぜか蝦蟇口を拾ったことを知っていて、「澤山ですか」。10円と応えるともとあった場所に捨ててしまえと話す。「私」は横取りするのだろうと推察し、「男」から逃げ始める。
 「男」がお金を欲しがっていると推察して、「私」はお金が欲しくなってします。ジラールの欲望の三角形のようだ。で、「私」は逃げるのだが、逃げた先の土手は、礫で足をかけるたびに崩れ落ち、思ったほど進まない。いわば蟻地獄にはまったようなものだ。
 百間は、「欲望の蟻地獄」、つまり底が無く、空しい人間の姿をはっきりと描き出す。そして、その蟻地獄から「私」を救うのは、流木である。流木がそこにあるのは、全くの偶然で、そのまま無駄な「もがき」を続ける可能性は大きい。それこそが、偶然性に振り回される人の「倫理」なのである。蝦蟇口を拾うのが、士族屋敷らしき場所であるのも、江戸から明治、大正と流れる時代の奥行きを感じさせるではないか。
 といったことを4ページ弱の中で考えさせる百間はとてつもない作家である。

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