保坂和志『カンバセイション・ピース』を読んで考えた
主人公の伯父と伯母が住んでいた東京・世田谷の一軒家に友人の会社の事務所を置いて、その社員3人と妻、妻の姉の娘と暮らす男性のお話。400ページを超える大作である(新潮社、2003)。とりたててびっくりするような事件も無く、毎日が過ぎていく。社長の友人はギターばかり弾いていて、ネットワーク関連の仕事をしているようだが、浮世離れしている。

夏目漱石に代表される「高等遊民」が文学を作り、文学の場面を形成するような時代であれば典型的な「文学的風景」である。今も半分そうかもしれないけれど。何はともあれ、読みながら家計とか給料とかいう卑俗なことを考えてはいけないのだろう。「読むこと」の快楽だけに身をさらす。さらに、植物の描写が結構細かく出てくるが、図鑑でも横に置いていないと場面が目に浮かばない。浮かばなくても困らないような話しではあるけれど、途中から飛ばして読むようにするとあっさりと終わってしまう。はて。
面白いし、考えさせられるのだけれど、何かひっかからないものがある。
実は、保坂和志の小説を初めて読んだ。きっかけは大西巨人の『http://www.kenyama.net/archives/2004/02/post_31.html">深淵』の中で、主人公が新幹線の中で読む本として、『もうひとつの季節』(朝日新聞社、1999年、中公文庫)と『<私>という演算』(新書館、99年、中公文庫)を取り上げていることだった。大西作品の中のしかるべき位置で、実名で紹介されている以上、とりあえず手に取って読んでみることにした。
最初に読んだのは、『季節の記憶』(講談社、1996年、中公文庫)で、鎌倉・稲村ガ崎を舞台にした父、子、便利屋の兄と妹のかなり非日常的な日常生活が、文字通り「淡々」と描かれている。恋愛ざたも事件も起こらない。そのかわりに、「自意識を薄めること」、「全身言語でできたこの人間の意識を、自分じゃなくて言語の方に向けさせる」といった会話に思索的な文句が挿入され、リズムに変化と読み手の意識を覚醒させる。で、結局最後は「ぷちっ」と突然電球が切れるようにして終わる。続編の『もうひとつの記憶』もそうだ。
ストーリーだけ取り上げると、季節の風景と人間の振る舞い、小猫などの小動物が繰り広げる退屈なお話だ。それと子どもに対する主人公の教育方針が印象に残る。幼稚園に行かせず、言葉の習得について禁欲的というか、主人公の自意識の形成と反省を投射させた一見すると大人の後知恵のような言語観を子どもに押し付けているようにも見える。
理想的な生活で、確かに家族たちは楽しそうではある。でもふと思うのだけれど、毎日の生活がほとんど同じで、細々した細部だけが違う生活は、退屈であるのと同時にかなり残酷なものではないだろうか。
そう思いながらデビュー作の『プレーンソング』(講談社、1990年、中公文庫)とその続編『草の上の朝食』(講談社、1993年、中公文庫)にも手を伸ばしてみた。若者四人が主人公のアパートに集まり、奇妙な共同生活を送る。生活費の工面とか下世話なことにこちらが気になってしまうほど楽天的な四人である。結局、主人公の正確な職業も語られず、小説は終わる。
小説とは、どこから読んでも、どこで止めても、良い小説であれば、それで十分に楽しめるのだ、というのは文芸理論の上では、正論なのだろうけれど、こうもぶちりと切られると、崖っぷちで立ち止まらされたような気がする。アニメのキャラクターのように、そのまま勢い余って中空に飛び出して、足の下に地面が無いことに気づいて初めて落下する場面に直面したようでもある。
読み方が間違っているのだろうか。芥川賞を受賞した「この人の閾」では、小田原での仕事の約束の行き違いで、時間ができてしまい、大学時代の先輩女性の家にいくお話し。行き違うような会話が繰り広げられる。途中、ちょっとエロチックな雰囲気も漂わせる。今度は出張先で時間ができて見て回った平城京と平安京が登場して終わる。
『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社、2003年)をみると終わり方について、意識的に切断していることが明らかにされる。結末のために小説を書くのではないので、ストーリーのない小説を目指していることや、書くことで変わる自分と読者に何を伝えるかについて熱弁が繰り広げられる。
しかし、保坂は書いていて疲れないだろうか? ストーリーや劇的な瞬間は無い。で、読ませるし、しばらく考えさせられることもある。よくよく考えてみれば、不自然な会話も、読んでいるときには違和感を感じさせない。その意味では上手いのだろうし、読ませる作家なのであろう。しかし、『小説入門』で豪語するほど、読んでいること自体をたのしんだり、その人の運動と変容を感じたりすることはできなかった。保坂の疲れる姿と時折見せるユーモアと機知といったものに「ニヤリ」とするばかり。そして思うのである。作家のその姿を感じさせるだけでもすごいのかもしれない。
