デリダ『他者の言語』について
フランスを代表する哲学者、ジャック・デリダの『他者の言語』(法政大学出版局、1989年)は、日本での講演をまとめたものだ。
フランスの思想家で現代思想を常に刺激する人物で、その著作は、極めて難解で、はっきり言ってしまえば、とっつきにくい。その意味で、大変いい「最初の一冊」である。講演をまとめたもので読みやすい。
日頃見慣れていて、あるいは読み慣れていて当たり前なことをはっきりと否定しなくてはならないように、追い込まれることは、わざわざ本を読まなくても、それなりの心構えとふとした思いつきで得ることのできる快楽である。
ただ、もう一歩先に進んで、書いてある言葉、文字、文章をはっきりと否定しなくてはならないことになったら、言い換えれば、言語それ自体を支える地平を否定しなくてはならないことになったら、それも、当の言語を読むことで言語を否定しなくてはならなくなるとしたら、それは快楽をこえて苦痛であるかもしれない。「私は言語を否定する」。はっきりと否定的に語ってくれれば、まだ「それは違う」と答えられる。そうではなくて、肯定的に語られつつもにっちもさっちもいかなくなってしまう不快。
デリダのよく使うモチーフに「痕跡」がある。痕跡とは、普通に使われる意味での痕跡で、そこには跡が残っているわけだけれども、それを痕跡付けたものはない。つまり現前しない。ところが、その痕跡は他なるものへと差し向けられている。己れ自身の現前性は消去しながらも、他のものの痕跡として現前的にあらわれる。
ひとつのエレメントがあって、それが他のエレメント自己との差異によって規定され、したがって他なるものへと差し向けるならば、その時、われわれはこのものを知覚していると思っているが、実際には、このものの中の他なるものへの差し向けを知覚しているのであり、それは「痕跡の経験」なのである。
そして、この痕跡の思想は、西洋哲学の総体によって余白化され、抑制され、隠蔽されてきたとする。痕跡の思想に光を当てることが、デリダの歩みなのである。
脱構築は斜線である。というよりも、鋭く磨がれたナイフで切ったその切り口である。一見すると、便利な道具に見えるかもしれない。しかし、もし脱構築が道具であったり、それを使った作業であるならば、言い換えよう、ナイフを脱構築と名付けるならば、それは脱構築を固定的に捉えすぎることになる。脱構築は決して道具化されえないものであり、常にその都度、相手によって変化する切り口を作ることである。
聖なるテクストである『聖書』の「創世記」のなかのバベルの塔の神話に関してデリダはこう言っている。意味と文字性が一体となり、何ら意味の見えなくなっている聖なるテクスト。これが純粋言語である。純粋な言語とは、諸言語が存在するようにさせ、そしてそれらが諸言語であるようにさせるといった、いかなる自己同一性をも有しない、そういうユニテ(一者)のことである。内容を持ちながら意味を持たない純粋言語を翻訳することではじめて意味が生まれてくる。原作(聖書)と翻訳をかみ合わせる愛の動作がそこにある。ナイフなんかで、切られてしまっては堪らない。そしてあらゆる解釈行為は翻訳なのである。とくにデリダにおいて。
デリダは、「贈与」についてこう言っている。贈与の出来事があるためには、誰かが何かを誰かに与えるのでなければならない。つまり、相互性、返還、交換、反対贈与があってはならない。かつ、彼はそれを贈与として認知してはいけない。その認知もまた、物そのものの代わりに、ひとつの象徴的な等価物を返すことになるからだ。贈与を、「債権者−債務者」といった負債の言葉で語らないためには、言い換えれば、エコノミー的円環の法、秩序を構成しないためには、いわば純粋な贈与を考えなければならず、そうした条件に合致した「何か」とは、不可視性のエレメントである「時間」のみであることが分かる。「時間を−与える」。また、贈与の真理は忘却の構造が支えている。認知されないのだから。
モースに『贈与論』のように、贈与と交換を結びつけているものは、時間的差延である。つまり、期限がきたら、言い換えれば、ある遅れを含んで交換が行なわれなければならないわけだ。この時間的差延を要求する力が、事物に内在するからこそ、贈与−反対贈与の欲望の運動が起こるのである。そして、この「与える−取る」の相等を求める力、規則は、道徳、倫理、政治の規則であり、かつ負債と義務に支えられたあるべきものの規則である。ある不等を前提としたこうした関係は、贈与者が支配者としてふるまうという掟を生産することになる。
しかし、逆に考えてみると、ある差延のあとで初めてエコノミー的円環が構成されるのであり、その時贈与はヒエラルキーを生み、権力関係を生産することになってしまう、だが同時に、その円環を断ち切る何かが差延の中にあるとも言っていい。言い換えるならば、政治的、経済的諸関係を解体することの可能性がこの差延のなかに含まれているのである。こうしたダブル・バインドの動きが、差延の中核に書き込まれている。
そして、言語もまた自然の贈与であり、交換の一現象であり、いつかは返さなくてはならない。しかし、それを認めてしまっては、権力関係の掟にいつまでもとらわれることになってしまう。

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