2004年3月23日

ジャズとアドルノ

 ドイツのフランクフルト学派を代表するひとり、テオドール・アドルノの『アドルノ 音楽・メディア論集』(平凡社、2002)を読んだ。ジャズが「ボロクソ」に言われているようで困ってしまった。
 ジャズというジャンルの音楽で重要な要素を占めるのは、即興演奏(インプロビゼーション)である。ジャズで曲ではなく、演奏が重視されるのも、メロディーの美しさではなく、演奏の善し悪しが作品の善し悪しに直結するからなのだろう。そこに、「規格化された個性」をアドルノは見いだし、批判する。

 アドルノによれば以下の通りだ。

 規格化されているくせに、いかにも個性尊重を呼び物(フィーチャー)にしているもっとも極端な例が、いわゆる即興演奏というものである。たとえジャズ演奏家が実際に即興で演奏しているとしても、今やそれは、きっちり「寸法に合わせた(normalized)」ものになってきているから、個性尊重を規格に則った技巧で表現できるジャズ演奏専門の語法(ターミノロジー)が全面的に開発されたといっていいくらいだ。また、それに対応する広告宣伝の専門用語(ターミノロジー)もあって、こちらはジャズを広く知らしめようとする代理人たちが大騒ぎするのに用いるものだが、職人芸をもつパイオニアという神話を吹聴し、また同時に、ファンにその楽屋裏を覗き見させたり、内幕の噂を流したりするのである。

 「ジャズ評論」の単なる広告宣伝の専門用語のからくりまで、こうもはっきり指摘されてしまうと、素直にジャズを聴いている自分が悲しくなってしまう。
 でも、レコードに文字通り記録された「音」に演奏の善し悪しをいうのはいいけれど、ジャズのプレーヤーは、毎日のようにジャズクラブやコンサートホールで演奏しているわけで、そのほんの一部を切り取った記録=レコードをもって、その人の演奏というのも乱暴な気がする。たまたま録音され今でも楽しめるだけの話しだ。それに、演奏を商品として販売するために録音する以上、何らかの不純な動機(売れて欲しいとか)が交わるのは致し方ないではないか。それに、資本主義社会で生きていく以上、何らかの商品になる必要はある。実家が資産家で生計の苦労が無いのならいいけれど。
 しかし、ジャズは本当にあやうい均衡の上に立っている音楽だと思う。一部の人々の娯楽として、かつて貴族階級の音楽、今で言う「クラシック音楽」があったように、ジャズは一部の「階級」の音楽であり、その変遷の過程の中で、よりメジャー=ポピュラーであること求められ、フリー・ジャズ、ジャズ・ロック、フュージョンなどと変化した。少しでも多くの人に商品として受け入れてもらうためだ。当時の動機は純真だとしても、今から思えばこう結論付けていい。アドルノの批判はもっとだけれど、その境目にジャズはあるといっていい。
 しかし、商品化を意識したその時、音楽の「志」は失われていく。100人が楽しいと思う「部族の音楽」から100万人が楽しいと思う「大衆の音楽」へ。記録=レコードを発売する会社にしてみれば、その受容者の数掛ける販売価格の金額の違いを考えてみよ。
 文学書のように2000円の単行本が、3000冊売れれば、600万円の売上げだ。これを筆者、出版社、取り次ぎ、書店が取りあう。レコードだって同じである。CDが3000円として、何枚売れれば演奏者の人件費、流通経費、レコード店の利益を確保できるのか。3000枚では、900万円の売上だ。そこから演奏者、作曲者、スタジオ、器材の経費を賄い、かつ大企業になってしまったレコード会社の給料さえ払わないといけない。。
 その意味で、ジャズとは決してメジャーになることなく、マイナーだがそれなりにお金が流れるといった矛盾した宿命を帯びたジャンルなのだろう。これが本当に、ポップスのようにミリオンセラーが毎年出るようになったら、多分ジャズフォンの聴いている「ジャズ」は市場から消えてしまうだろう。売れ線狙いばかり。そして、そうやって消えてしまった音楽のジャンルは山のようにあるのだ。

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