2004年5月 9日

ドゥルーズとスピノザで元気になろう

 オランダの哲学者、スピノザ(1632-77)の著作を読むと、元気が沸いてくる。研ぎ澄まされた論理と倫理はすがすがしい。世界を唯一の実体から解き明かし、属性そして様態へと展開する哲学は、すべてが因果関係の網の目に捕らわれているとする。が、その因果関係の認識こそが自由の源、というわけだ。主著は『エチカ(倫理学)』(岩波文庫)など。
 フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズ(1925-95)の『スピノザと表現の問題』(工藤喜作ら訳、1991年、法政大学出版局、原著1968年)を読んだ。ドゥルーズの学位論文『差異と反復』(財津理訳、1992年、河出書房新社、原著1968)の副論文として書かれたスピノザ論だ。

 スピノザの哲学は汎神論とされ、神=自然の体系には一切の自由が無いように見えてしまう。そこにドゥルーズは、「表現」という概念を差し込み、「能動性」、「力」を読み込んでいく。そして、能動-受動、多-少など「経済的」な概念を繰り出し、スピノザの「倫理」を明らかにする。
 

われわれが努力しうるすべてのことは、相対的に見て悲しみにくらべてより多くの喜びの感情を、受動感情にくらべてより多くの第二種の能動的な喜びを、そして、第三種の喜びをできるだけ多くもつことである。問題はすべてわれわれの変様をうける能力を行使する感情の比率にかかっている。つまり、非十全な観念や受動感情がわれわれ自身の最小の部分しかしめないようにすることが問題である(329ページ)

 理論ではなく、実践の問題で、かなり現代的である。
 そして、世界が神であり、我々の目にするあらゆる社会、物質、関係が単なる「神の表現の表現」=「実体の属性の様態」ならば、「神はいない」ようなものである。キリスト教やユダヤ教から追放されたスピノザは当時、「神に酔える無神論者」と非難された。神を殺すまでもなく、「神棚」に乗せてしまえばいいのだ。
 もちろん、どこぞの国の「八百万(やおよろず)の神」のように、いたるところに複数の神があるのではない。唯一の実体として神はいる。しかし、直接見聞することも認識することもできない。そう、それは「神」という名のベツモノある。
 ドゥルーズには『スピノザ 実践の哲学』(鈴木雅大訳、2002年、平凡社ライブラリー、原著1981年)というスピノザ論もある。

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