2004年5月29日

やっぱり強い夏目漱石 大杉重男『アンチ漱石 固有名批判』

 大杉重男『アンチ漱石 固有名批判』(講談社、2004)は「漱石論」ではない。毎年、無数に出版される漱石の研究書、批評を批判した本である。帯のコピーは「議論勃発 日本文学を「漱石による拘束」から解放する」となっているが、おそらく議論は勃発しないであろう。
 確かに「世紀末を予言」したり、「近代」が片づかなかったりする原因が漱石であるのは異常だ。しかし、本が出版され、論考が雑誌に掲載されるのは、単純な事実として、「漱石本」を読む読者が多いからである。そして、その結果として誰もが漱石について、しゃべって見たくなり、更に読んでみたくなるだけのことである。
 そのことと、大杉の言うように、漱石が教養主義=官僚主義の温床であり、ひいては天皇主義者であることは別問題である。よって「漱石だけを持ち上げるな!」と怒りの声を発するのは分からないことでは無いけれど、きわめて一面的な議論であろう。おそらく大杉は本書の中で明確にしない「動機」、「背景」を持っているのだろうが、読んだ限りでは、「怒り」に任せて書き連ねた文章にしか見えない。

 さらに、議論がガサツである。漱石論とは、常に漱石神話への批判であり、そのことが結果として更なる漱石神話の強化につながっているという文脈で、「悪いのがドイツ国民でなくヒトラーであり、日本国民ではなく昭和天皇であり、マルクス主義者ではなくマルクスであるとすれば、悪いのは漱石崇拝者ではなく漱石である」として、漱石自身を批判することを主張する。しかし、それこそ「漱石論」ではないか。
 さらに「西田哲学に戦争責任があるとすれば、漱石の文学にもそれと同質の戦争責任があると考えられるべきである」という部分では、笑ってしまった。確かに、昭和天皇が言ったような意味で「文学的」な戦争責任は、漱石にもあるだろうし、西田幾多郎にもあるだろう。しかし、戦争責任とは、あくまで法的な責任であり、この種の議論は、下手なアジテーションでしかない。
 この本を読むのはいずれにしても、「漱石読者」である。そして、この本自体が「漱石神話」の強化につながるだろうことに、大杉は自覚的なのかが不安である。
 ところで、漱石を愛読しながらも、強く違和感を感じる作品に「満韓ところどころ」がある。大杉は、この満鉄総裁長谷川是公との満州での豪遊をめぐって、漱石の「自己」の空想性について「個人は国家によって守られて初めて個人でありうる。その意味で個人は国家から絶対的な恩恵を贈与されているのであり、そしてその贈与に個人は報いなければならない」と説明する。最近、イラク絡みでよく見かけた議論のようだが、結局、漱石は、単なる俗人で、その「批評精神」など現地の現実を見ない「空想」だと言うわけだ。この限界は確かに漱石の「底」が見えたという意味でその通りだと思う。しかし、そこ平凡さこそ漱石の魅力ではなかったろうか。大杉こそ漱石を買いかぶりすぎていないか。
 読み進みと、「20世紀的な露悪家=偽善者」、「権力(漱石)はポジティブな愛によって支配する」、「絶対無の場所(天皇)に参入するためのパスポートの一つ」、「漱石的な他者の問題に事大主義的にこだわることは、結婚制度に対するイデオロギー的加担につながる」、「金井美恵子から保坂和志に至るまで増殖する猫小説は。この漱石の作った閉域から出ることはない」など、漱石をめぐるフレーズがつぎつぎと放たれる。読んでいて清々しいくらいだ。
 しかし、本当に漱石と「漱石なるもの」を抹消したいのであれば、こんな本を書かず、違った角度から「漱石なるもの」を批判したほうがいい。志賀直哉論、国木田独歩論、中野重治論から、漱石の底の浅さを浮き彫りにした論考を読みたいものだ。
 そして、読み終わって残る印象は「どうしてここまで漱石について語りたくなるのだろうか」ということであり、そのことは大杉の漱石への偏愛を示しているようにしか見えない。そう、「おそるべし漱石」なのである。

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