寺島靖国氏と沼田順氏の論争と、「無関係」な人々
「ジャズ批評」(2005年1月号、通巻123号、ジャズ批評社)の寺島靖国氏(ジャズ喫茶「メグ」店主)の連載『「ジャズ批評」を批評する』(第3回)がやっと、タイトル通りになってきて面白くなった。第2回までと違って、前号の「ジャズ批評」の記事そのものがやり玉に上がっているからだ。
「ジャズ批評」は、隔月刊になって、毎号買うようになった(といってもまだ4冊目だが)。それまでは、特集によって買うだけだった。月刊の「Swing Journal」(スイングジャーナル社)は判型も大きく毎月買うと嵩張るので、もっぱらジャズ喫茶で済ませている。
それに広告出稿に比例して、「ゴールドディスク」が選定されているような気がしてならない。もちろん、選定されたので、嬉しくなって広告を出すのかもしれないけれど。
さて、寺島氏が冒頭やり玉に上げているのは、「ジャズ批評」(2004年11月号、通巻122号)の「沼田順のパンクですから」(第3回)である。寺島氏とディスクユニオンのジャズ部門責任者、山本隆氏の両氏を「ジャズ業界の必要悪」として、二人は、ジャズ以外の音楽を認めない「囲い込み派」で、「楽しけりゃいいじゃ」の薄ぺっらだ、というわけ。
それに対して寺島氏は、123号で沼田氏の文章に対して、「面白いが軟弱」、「四方八方に気を遣」い過ぎで、もっとガンガン批判しろ、とけしかける。情熱を失って、立派なことを言おうとするな、という意味のようだ。
さらに、沼田氏が好むとされる「先鋭的」なジャズは、ジャズが変化するための「必要悪ジャズ」だ、と言葉を返し、ついでに編集人の原田和典氏と連載を持っている益子博之氏も、かつてのフリー・ジャズ礼賛記事のようで古臭いとする。
もちろん、ジャズに限らず「停滞」するより「進歩」した方がいい、というのは一つの価値観であって、まったく逆の価値観があってもいい。「スローライフ」もそんな価値観の一種だろう。
それに芸術であり表現なのだから、ある枠の中で種々の工夫を凝らすことも決して非難されることではない。かつて現代美術が、額縁の枠を超えて、インスタレーションやパフォーマンスにその活路を求めたとしても、決して額縁の中の絵画が消えたわけでも、単なる伝統芸能になったわけでもない。
世界中がひとつの「マーケット」になって、皆が一斉に「競争」し、「勝ち組」と「負け組」に分かれることになるという「経済社会」でのお話ならまだしも、仕事に疲れ、人間関係に困惑する人の「娯楽」でもある音楽である。
どんな音楽であろうと、演奏する人がいて聴く人がいればいいと思う。良い悪いとか、進歩と停滞といった問題ではないと思う。生産者(レコードメーカー、演奏者)と消費者(リスナー)の問題意識は別である。
いずれにしても、寺島氏が言うところの銀座・山野楽器でHarold Mabern『Fantasy』を買った妙麗なご婦人も、沼田氏の言うところのAlbert Aylorやエレクトリック・マイルスを何の抵抗もなく聴く「普通の20代」も、どちらも寺島氏と沼田氏の論争などまったく気にせず「音楽」を聴いているのだろう。

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