「エチカ」の快楽とドゥルーズの悦楽
音の流れに身を任せたり、水の流れに身を任せたり、食欲の流れに身を任せたり。
ジル・ドゥルーズ(1925-95)の哲学を読む悦楽は、「あれはこれである」や「これこれ故に、こうすべきた」といった身の置き場に困ってしまうような場面に出会わないで済むことだ。微細な粒子が流れていく感覚。
江川隆男さんの『存在と差異 ドゥルーズの超越論的経験論』(知泉書館、2003)を読んだ。スピノザとニーチェを参照して、「エチカ」の「永遠の非従属」を析出し、<反-実現>の実在性をたどる。江川さんは1958年生まれで、東京都立大学助手。
安易で無責任なイメージで語られてしまいがちなドゥルーズ哲学の本格的な研究書で、ページをめくりながら、考えさせられる。つづいて、スピノザの本を読みたくなる。良い本だ。
学生の頃、一気に嵌まったが哲学者がスピノザだった。汎神論と呼ばれる、一義性の哲学は魅力的だった。今もそう。
「人間は必然的に諸感情に従属する。また人間の性情は、不幸な者を憐れみ、幸福な者をねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになっている。(中略)この結果、すべての人々はひとしく上に立とうと欲するがゆえに、みな争いにまきこまれ、できる限り仲間を圧倒しようとつとめ、こうして勝利者となる者は、自分を益したことにより他人を害したことを誇るに至る」(スピノザ『国家論』(畠中尚志訳、岩波文庫、p.14-15)
何とも救いようの無い認識だ。レンズを磨いて生計を立て、宗門から破門されたユダヤ人、スピノザ。本人と伝えられる肖像の静謐な表情からは遠い、冷徹な認識である。このことは『エチカ』で証明され、その上でこの『国家論』があるという。
もちろん、単なるニヒリズムではない。そんな表面的な姿勢とは遠い地点に彼はいた。私も禁止や命令とは縁遠い「エチカ」を学び、あたかも「道徳」であるかのように暮らしたい、と。
江川さんは本書の冒頭(p.6)で以下のように記す。
「私が本書の中でドゥルーズの哲学から析出する<反-実現>論とは、それ自体がまさに<エチカ>における永遠の非従属の論理であり、判断力(=裁き)から訣別するための無意識的観念の一つの表現活動、一つの生産活動である。」
現実を前に開き直ったような態度から、謙虚な態度へ。そうそう物事は分かりやすくない。微細な流れに身を任せた、冷徹な認識と『エチカ』は尽きない快楽の源である。
