2006年2月19日

ジジェクを字義通り受け止めよう

 精神分析の言説は基本的に不愉快である。何を言っても、「実はこれこれなんです」、「本当は逆です」、「隠された欲望です」などなど。私の言っていることをもう少し字義通り受け取って欲しいものだ。
 ところが、時折読みたくなるのがそういった「哲学を精神医学化」したような本である。諸般の言い訳、話しのごまかし方の訓練にもなる。
 スラヴォイ・ジジェクの『否定的なもののもとへの滞留 カント、ヘーゲル、イデオロギー批判』(ちくま学芸文庫)は、精神分析家、ジャック・ラカンの理論を使って、カントやヘーゲルに対する一般的な見方を逆転(?)させる快著である。

 ジジェク(Slavoj Žižek)は、1949年スロベニア生まれ。哲学・精神分析に関する著作が多数邦訳されている。現在、リュブリアナ大学社会科学研究所上級研究員。ちなみに「否定的なもののもとへの滞留」はヘーゲル『精神現象学』の序論にあるワンフレーズだ。

 原著は1993年の刊行で、1998年に太田出版から邦訳単行本が出版された。今回はその文庫化。今はなき季刊「批評空間」で本格的に紹介された思想家で、翻訳の一部が同誌に連載されていた。

 原著が書かれていた時代は、東ヨーロッパの共産圏諸国が崩壊し、象徴的だったベルリンの壁が無くなった頃で、西側諸国の「リベラル・デモクラシー」が遥かに楽観的に捉えられていた。今から思えば、旧ユーゴスラビアの「戦争」は、その後の政治状況の縮図だったと言える。そのことを強く意識させるジジェクの分析は流石である。スロベニア出身でもある。

 本書は空虚な主体としての「コギト」、弁証法的誤謬推理の「エルゴ」、享楽の「スム」と三つの部で構成されている。デカルトに端を発する近代思想をたどりつつ、映画やオペラ、哲学を独特の論理と文体でさばく。

 カントが「超越論的統覚」や「物自体」を発明(?)し、そこにシンプルな共同体は失われ、間主観性が、つまり「他の主体」が主体の内部に組み込まれる。そして自然的に必要な「欲求」が、象徴的な媒体において分節化され、他者への「要求」になり、しかし要求が単に満たされただけでは、満足できない残余である「欲望」が生まれるというラカンの三つ組みと合わせて、分析の基調を構成する。そして、最後に「権力の言説と直面した際になしうる唯一の転覆的振る舞いとは、しばしばその言葉を字義通りに受け取るということになるのだ」と、権力の遂行性をひっくり返す。言っていることと、やっていることでは、言っていることの方を信じようと言う訳だ。

 ところで、本筋と余り関係ないのかもしれないけれど、1600年ごろに生まれ、20世紀になって終焉を迎えた「オペラ」と入れ替わりに精神分析が登場したという仮説が面白い。
 オペラの時代とは、「特定のドラマ上の出来事の上演の一部として、舞台上で歌うことが可能であった時代」で、オペラの歴史は主体性の歴史であり、20世紀になってついに、古典的主体性が終焉し、近代的なヒステリーの主体が登場したという訳だ。

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