ジャズの「構造改革」と歴史
ジャズを聴くのも大変である。『ジャズ構造改革 熱血トリオ座談会』(彩流社)は、四谷のジャズ喫茶「いーぐる」店主後藤雅洋、元スイング・ジャーナル編集長中山康樹、音楽評論家村井康司の三氏による鼎談だ。
読み物としては面白い。しかし、内容については「業界の人は大変だなあ」と思うばかり。「構造改革」というタイトルは冗談としても。
「構造改革派」とは、戦前の日本資本主義の半封建的性格を強調した講座派の流れをくむ旧社会党のセクトである。一方、労農派は明治維新をブルジョア革命であるとした。というのは、さておき。
ジャズの聴き方に「四谷派」と「吉祥寺派」の対立というのがあると言われている。前者は歴史を踏まえて聴く、後者は楽しく聴く。四谷にあるジャズ喫茶「いーぐる」と吉祥寺の「メグ」の違いのようにも言われる。もちろん、どっちが正しいということはない。好みの問題である。
ジャズに限らず、音楽にどんな聴き方があってもいいと思う。私にとって、音楽を聴くのは単なる娯楽、語弊があるなら「趣味」である。そのことを人にとやかく言われる筋合いは無い。何をどう聴くのも自由だから。
ところが、中山氏の歴史観によれば、「黒人」が「戦う」音楽としてのジャズは、ウィントン・マルサリスで終わったそうである。よってマイルスやコールマン、コルトレーンの名盤を聴いていればいいらしい。
過去に素晴らしい演奏があるのなら、それを一途に、聴かせる、紹介する、絶賛する。それだけのことである。「知らなきゃ損だよ」と伝えるだけ。そこで終わっておけば何の問題もない。
ところが、やり玉にあがる寺島靖国氏や澤野商会、ヨーロッパのピアノ・トリオを聴いている人に、「わかってない」とか「ジャズじゃない」と言うのは全く無意味だと思う。
ひどい言い方だけれど、知らないで喜んでいる「無知な」リスナーがいてもいいではないか? 誰が困るのだろうか? それとも彼らは解脱に達してない人にプレッシャーを与える、一種の宗教なのだろうか?
私はこの区分でいくと、圧倒的に無知なリスナーである。マイルスもジョン・ゾーンもコルトレーン、コールマン、いずれも苦手で、決して「かっこいい」とは思わない。
で、うつらうつら考えた。
身もふたもないけれど、演奏や作曲の歴史と思想を、本当に丹念に理解し(しつつ)聴く人はいるだろうけれど、その数は限られている。増やす努力、いわゆる啓蒙は必要だろう。だが産業として音楽が成立するためには、そうとも言っていられなかったはずだ。宮廷で貴族が音楽家を抱えている時代ではないのだ。
同じことは文学についても言える。たとえば日本近代文学は明治時代に、「発明」された制度で、国民国家としてこの国を成立させる国語や民族といった幻想の基盤になってきた。そこから「産業」として出版や新聞が生まれた。そして、一気にマーケットは拡大し、文学は読まれるようになった。
その時、本当に言語としての美について、理解し(しつつ)読んでいる人だけを対象にはしなかった。雑多なジャンルの文学(小説)が生まれ、読者のすそ野は拡大した。
純文学という「高級」な文学を読んで感動した人が、宮部みゆきを読んでいる人に、「そんなの文学じゃない」とか「文学がわかってない」と言っているようなものだ。返ってくる答えは「ほっといてくれ」である。
ちなみに純文学とは芥川賞の対象で、「文学界」、「新潮」、「群像」などに掲載される小説のこと。発行部数は通常数千部単位。対概念は大衆小説で、「小説新潮」や「オール読物」などに掲載される小説のこと。こっちは直木賞の対象で、発行部数は数万部単位。
絵画でもそうである。パブロ・ピカソは、それこそジャズ界におけるマイルス・デイヴィスのような人物だ。スタイルを変化させ、時代の潮流をつくった。しかし、ピカソ・ファンが、奈良美智(アニメ・キャラクターのような絵をかく人気作家)の大好きな女子学生に「そんなの絵画ではない」、「わかってない」と言ったらどうなるだろうか? 間違いなく嫌われる。ましな発言は「ピカソの青の時代はいいよ。今度美術館に見に行かない?」である。
いずれにしても、音楽、絵画、文学は、近代になって聴衆、観衆、読者が極端に拡大し、購買者の数は一気に増大した。そうしないと産業として成立しないから。その結果、レコード会社、出版社、作家らがたくさん集まった。言ってみれば、一種の長期的なバブルである。
ある人が感じた感動を、誰か伝えてくれるのはいい。そのための挑発として「分かってない」と言うのも分かる。だけれでも、そんなことばかりしているから、ジャズは終わったのではないか? まあ、終わってもいいけれど。
さて、ジャズをネタにしたウェブ・サイトも「お粗末」、「ジャズ評論家ごっこ」と言われている。編集者のチェック、締め切りがないので緊張感がないというけれど、まったく違う土俵の話を混同していないだろうか。
この3人の著書は何冊も読んでいる。その「文」は確かに面白いし、役にも立った。商品として完成させるために、締め切り、原稿料、編集者のチェックがある。消費者はそれに対価を支払うのである。
ウェブ・サイトは違う。直接商品ではない。たまたま近代が出版を産業にしただけで、彼らの言う条件は、きわめて歴史的な産物だ。それがあたかも当然のような認識は間違っている。「源氏物語」に編集者や締め切り、原稿料があったのだろうか?
確かにウェブは、露骨なメディアである。玉石混交である。各人が自宅のお風呂でつぶやいている歌や言葉のようなものだ。
歴史派の歴史とは何なのだろうか? 何だか不思議な本である。
長くなったので、ここまで。

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