2006年9月 9日

音楽を聴く、本を読む、その違い

 音楽を聴くのも好きだけれど、音楽について書いている本を読むのも好きである。どれも人間の精神の作物。
 小説も好きだが、文芸批評も好き。極端な話、批評の方だけ読んで、作品を読むのが億劫になってしまうこともある。音楽については「クラシック」と「ポップス」が対象の批評が多く、どちらも最近ほとんど聴かないけれど、評論を読んでいるだけで結構楽しい。
 で、音楽を聴くことをテーマにした増田聡の『聴衆をつくる』(青土社)を読んだ。

 増田は1971年生まれの音楽学、メディア論の専門家。

 中身は多岐にわたる。その中で気になったのが、公共財としての音楽の議論。これでは道路や公園のような「行政サービス」に音楽はなってしまいそうだ。

 音楽が産業として成り立ってきたのがこの100年。

「素朴なロマン主義的な観念--天才、創造性、表現としての音楽--が、自然権論を媒介にしつつ複製テクノロジーによる産物の交換価値を独占し、かつヒットチャートという言説的回路を通じて効率的に収益を回収する」。

 ところが、この商品の特徴が公共財だという。

「音楽は物的な商品とは異なり、その消費の際に、他の消費者が一つの商品の使用をめぐって競合する、ということがない。つまり、通常の場合、一人の消費者がある一つの商品を消費すると他の消費者はそれを消費できなくなるが、音楽は多数の消費者によって同時に消費することができ、かつそのことで音楽が無くなってしまうことはない。また、物的な商品と異なって音楽は、対価を支払わない消費者を排除し難い特性を持っている。この二つの特性とそれぞれ、経済学では非競合性(消費者相互の使用が競合しない)および非排除性(ただ乗り的な使用を排除できない)と呼び、これらを公共財的性質と呼ぶ」。

 確かに! そこで著作権制度は、「法制度によって人為的な独占性を付与」しているわけだ。そして今、「「複製の管理」に基づく音楽の経済システムが、終焉の時を迎えている」。

 で、複製に頼っている音楽業界も出版業界も不景気だ。

 J-POPと呼ばれる商品が、ミリオンセラーになったり、「何とかポッター」が社会現象のように売れたけれど、金額を見ると産業規模としては自動車や不動産、石油や航空機にはまったく敵わない。ドラスティックな新規参入やイノベーションがあればいいのだろうけれど。

 さて、消費者が「精神の作物」を楽しむために複製する具体的な手順を考えると、音楽(映画などの映像もそうだ)のコピーはデジタルデータになって販売されているため、機械任せで簡単。
 ところが、本の全ページをコピーするのはかなり面倒だ。どこぞのGoogleが図書館の本を簡単にスキャンするための機械は数千万円もする。そうすると出版業界の方がしばらく長生きできそうだ。

 さらに、この弁でいくと新聞社の方がテレビ局よりは暫くは安心かもしれない。

 さて、電気が無くなった時のことも考えると、本は有利である。
 太陽がさしていれば無電力で楽しめる。新しく本を作ることはできないけれど、音楽はCDを持っていても全滅。もちろん、アコースティック楽器を目の前で演奏してもらえるのなら大丈夫だけれど。

 脱線し過ぎた。

 本書では、さらに、ジャンルについて、「言語の恣意性と分節構造がわれわれの世界認識の土台を形づくっているように、ジャンルの恣意性と構造こそが音楽の世界を分節し、その意味を生み出している。言語の外部が存在しないように、ジャンルに属さない音楽は存在しない」という断言や、「ある音楽のジャンル区分を操作する言説行為は、その音楽を支配しようとする欲望と分かちがたく結ばれている」という判断に納得。

 「日本ロック論争」で内田裕也が示したことが、決して商業主義を排除せず、日本的なローカル商業主義に対する嫌悪感だったことや、ロックの「君が代」がもつ意味なども、読んでいて刺激的。

 そうかと思えば、「音楽学的な「良い」聴き手は「音楽それ自体」を弁別し形式を理解することができる。すなわち、「再生産可能な構造」として音楽を認識できる能力こそが音楽的聴取の規範となる(中略)規範と現実はいつしか混同され、聴取を巡る言説は倫理的な色彩を帯びる。「身体」でのみ反応するような聴取は「悪い」聴取になる」

 ヘベレケになりながら、ジャズを聴いているのは、かなり「悪い」聴取である。ふーん。

 さて、今年はモーツァルト生誕250年だそうである。
 文藝評論家、高橋英夫『疾走するモーツァルト』(2006(原著は1987)、講談社文芸文庫)によると「小林秀雄の既聴感に当るのが、梶井基次郎では石化した音楽の表面から舞いあがる自意識であり、二人は音楽が現実の奥に、もうひとつ異質の空間を構成しているのを予感していたのである。小林秀雄が記憶の軸に沿って、音楽の深い淵に近づいていったとするならば、梶井基次郎の方は、石像の騎士長によって恐怖の地獄へと追い落とされてしまうドン・ジョバンニのおののきをどこか連想させるような、音楽の戦慄を味わっていた」。旋律は戦慄。

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