素敵な音楽をめぐる読書の連鎖
素敵な装丁で手に取った『あたらしい教科書8 音楽』(プチグラパブリッシング)を読んだ。コンパクトに20世紀の音楽を辿れて面白い。他にも「あたらしい教科書」シリーズとして、本や広告などの7冊が既刊。
で、読みたくなったのが小林秀雄の「モオツァルト」。そして吉田秀和。
小林の「モオツァルト」は、戦後まもなく雑誌に発表された。いかにも小林らしい文体と意気込み(勢い、思い込み等々、いろいろと形容できる)で展開される。モオツァルトを「読んで」いると、当然モーツァルトを「聴き」たくなる。
「モオツァルトの歌う様な主題が、実はどんなに短いものであるかという事には、あまり人々は注意したがらぬ。誰でもモオツァルトの美しいメロディイを言うが、実は、メロディイは一と息で終わるほど短いのである。或る短いメロディイが、作者の素晴らしい転調によって、魔術の様に引延ばされ、精妙な和音と混り合い、聞く者の耳を酔わせるのだ」。
短い主題が印象的で、それで聴きやすく、今なお広く愛されているのだろう。特に今年は生誕250年ということで、CDショップでよく赤い上着で右向きでこっちを見つめる肖像画をみかける。
「ほんの僅かな美しい主題が鳴れば足りるのだ。その共鳴は全世界を満たすから」。
※上記の引用は、新字新かなに変えてある。
ここまで断言されると感動的だ。
で、この「モオツァルト」を戦後すぐに読んだのが、1913年生まれの音楽評論家、吉田秀和。
「それを読んだ時のショックは一生忘れられないだろう」(講談社文芸文庫版『ソロモンの歌 一本の木』の「小林秀雄」から)。
ちなみにこのエッセイ集は、音楽評論以外の作品を集めたもので、小林だけでなく、中原中也らとの交友も描かれ、何とも良き時代の「文化」を感じさせてくれる。もちろん、小林も中原も存命ではない。一方、吉田が今なお書きつづけていることは感動的。
その吉田の『モーツァルト』(講談社学術文庫)にも手が伸びる。モーツァルトの手紙のフレーズから、モーツァルトの決意を「音楽は何を表わそうと、耳を満足さす音楽としてとどまり、その域を脱してはならない」と指摘する。「耳を満足」である。言ってしまえばそれだけ。
つまり、高級な音楽や一流の芸術に、高等な世界観や思想性を見出そうとする姿勢を「曖昧な仕事」と批判し、「古来高級な音楽といわれているものの出来具合が、他の曲とどうちがうかを綿密にしらべ、そこに作曲家の耳の微妙さの刻印を見出さないのか?」という訳だ。短い主題も何かそこに関係があるのだろう。
クラシック音楽の流行には疎いのだけれど、へーっ、と思ったのが、「今のフランスには、「交響曲、つまり主題の論理的展開から生じる音楽の独立自尊こそは、傲慢のもとである」といって、ディヴェルティメント(嬉遊曲=引用者注)しかかかない作曲も出てきた」という一文。
吉田は批判的に取り上げているのだけれど、そういう発想があったことに感心する。傲慢?ですか。
吉田は先見的でもある。「私が知っている限りでの、機械音楽の発達の様相は、むしろ絵画に対する写真機の出現とその発達に近いものになっているように感じられる」、「いずれは、音楽の断片がテープにあらかじめ吹き込まれ、愛好家たちが、それを思い思いに組み合わせて楽しむ日が来るかもしれない」。と1968年に書いている。
確かに来た。コンピューターによるサンプリングであり、DJであり、iPodである。
そう言えば、今年のボジョレ・ヌーヴォーは美味しいとのこと。たまたま買った1本も美味しかった。新鮮で爽やかなんだけれど、ちゃんと味があるというのでしょうか。寒くなってきた。部屋に籠るにはぴったり。
