2006年11月26日

文庫になったドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』

 「われわれは『アンチ・オイディプス』を二人で書いた。二人それぞれが数人であったから、それだけでもう多数になっていたわけだ」

 哲学者、ジル・ドゥルーズと精神分析家、フェリックス・ガタリによる名著『アンチ・オイディプス』から8年後の続編『千のプラトー』の序「リゾーム」の書き出しだ。そして今年、「多数」で書かれたその『アンチ・オイディプス』の邦訳も「多数」になった。
 『アンチ・オイディプス』が文庫になった。翻訳は宇野邦一で、以前から出ていた単行本の市倉宏祐ではなく、新訳で、随分雰囲気が違う。いずれも河出書房新社から。

 1987年。大学生だった私は、戸田ツトム装幀の邦訳『アンチ・オイディプス』を買った。重かったし、4500円で高かった。が、消費税はまだ無かった。ちなみに、文庫のカバーデザインも戸田ツトム。

 戸田ツトムといえば雑誌「GS」だ。黒ベタと活版活字を駆使した4号「戦争機械」は抜群だった。ポール・ヴィリリオとドゥルーズ=ガタリの特集だ。

 で『アンチ・オイディプス』。欲望を解放するプロバガンダ。ミクロで、流れて、微細な粒子、流動。「オイディプス・コンプレクス」が、ほんとんど理解不能なこの国で、まず「オイディプス」を知ることから始まった読書。懐かしく、楽しかった記憶。

 「分裂症」が統合失調症という、さらに偏った用語に言い換えられてしまった昨今、合わせて2400円(別途消費税)で、本書を読む価値はかなり大きい。是非。

 さて、文庫になって何が嬉しいかといえば、上下2冊を気軽に持って歩けることだ。D=Gの本は「道具」であって、軽やかにつかうべきで、文庫は相応しい体裁なのである。
 しかし、索引はともかく、「原注」が下巻にまとめられているのはいがかなものか。「注」のためには、上下巻とも持って歩けと言うことだろう。それとも「注」を読むような読者は1冊になっているフランス語で読んでいるということか。だったら訳さないで欲しい。

 いずれにしても、きっと近々やって来るであろうと期待し願望する『千のプラトー』の文庫化の際には配慮して欲しいもの。

 で、思ったのは、20年近く前、重い単行本を鞄に入れて歩いていたころ。PowerBookも
携帯電話もなく、シンプルに本を持っていれば良かった。

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