『レコードの美学』と『差異と反復』
部屋でレコード(CD)の「再生音楽」を聴くより、生のライブ演奏を聴くほうが「エライ」かのような幻想は、両者を順番に並べるから生まれるわけで、両者がまったくの別物、つまり個々のトマトと私の筆箱のようにほとんど関係のないものだと思えばそれまでである。
細川周平さんの『レコードの美学』(勁草書房)を読んだ。以前はビニールカバーだったけれど、最近は紙カバーだ。カバー・デザインはちょっとこわい。
細川さんは1955年生まれで、国際日本文化センター助教授。本書は1988年に東京芸術大学へ提出された博士論文がベースで、出版は1990年。
「どこでも、何度でも聴けるということが、美的な経験としてどういうことなのか」という問題意識がベースになっている。複製技術による美的経験の特異性である。
一方でまったく反対、「どこでも、何度でも聴けるのは美的経験ではない」という発想もある。
「複雑な和声と多声の錯綜をもはっきりと把握し、音楽の具体的な論理を余すところなく掌握しなくてはならない。それは音楽の構造を決定している技術を全てききとり、思索的にその組立に参与できるような聴取」である。
もちろん、それは西欧のクラシック音楽(ベートーベンやウェーベルンなどなど)に関しては理想的な聴き方だったかもしれない。しかし、その枠外にある音楽を感性的に拒否し、社会の衰退と結びつけ、自らの理性的優越を強調するだけでは、確かにもったいない。アドルノのことである。
さて、複製技術で再生される音楽は、常に同じではない。コンサートの生演奏で同じ曲を取り上げても、その日、その回によって、時間の流れの中で、演奏が、曲が差異を生むように、レコードの反復も差異を生む。
オーディオ機器の違いや歩きながら聴いているなどの環境だけでなく、反復それ自身が生み出す差異を音楽に聴きこむことはたやすい。ジャズの「名盤」を何度聴いても発見があるという、あれである。第一、まったく同じように聞こえるのだったら、音楽を繰り返し聴く必要もない。
「作品の再演可能性は前へと進む時間の中での同一性に基づく。レコードは回帰そのものによって肯定され、回帰のたびに差異を生むものであることによってその存在が構成されている」。
複製技術には、「アウラ」のような唯一無二性はなくとも、差異的な単独点がある。模倣と反復の違いといってもいい。模倣はあくまで模倣だけれども、反復は必ずズレを生む。ジル・ドゥルーズの主著『差異と反復』(河出書房新社)のメイン・テーマである。
本書のポピュラー音楽、技術、弱い聴取などについての論考も大変面白い。そもそも音楽を聴くことは快楽なのである、ということを再確認する。
ほぼ同時期に読んでいた中川右介さんの『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書)と雑誌「ユリイカ」(2007年2月号、青土社)の特集「戦後日本のジャズ文化」も面白い。
『カラヤンとフルトヴェングラー』は、戦前から戦後にかけてベルリン・フィルの「首席指揮者」をめぐる陰謀と策略の物語。ナチス・ドイツも絡むのだから、冒険小説のよう。『レコードの美学』どころではない。「アウラの戦い」。
「ユリイカ」は、マイク・モラスキーさんの『戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ』(青土社、2005)をきっかけにした同名の特集。日雇いの進駐軍クラブのメンバーを集める新宿南口の様子など今の「GAP」前における歴史の深さを痛感。
さて、最近は新書だけでなく文庫もすごいと思う。以前ポストした『アンチ・オイディプス』(河出文庫)につづいて、『意味の論理学』(河出文庫)も新訳で登場。ホルクハイマー・アドルノ『啓蒙の弁証法 哲学的断章』(岩波文庫)も出た。漱石の『文学論』も岩波文庫に。
親本を持っているのにやっぱり買ってしまう。
かつて邦訳を待ち望み、やっと出ても数千円の捻出に苦労したことを思い出すと、文庫の1000円などウェルカムである。持ち歩きやすくなり再読することにもなる。
ただ、文庫化は業界の不況が原因で、各社が出せる材料をどんどん搾り出しているだけかもしれないけれど。

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