2007年4月21日

『啓蒙の弁証法』と想像力と現在

 ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法 哲学的断想』(岩波文庫)を読んだ。1990年の単行本も買ったけれど、文庫化が嬉しくて購入。再読した。原著は1947年刊。
 最近、いろんなものが文庫になる。ドゥルーズの『意味の論理学』(河出文庫)も小泉義之さんの新訳で発売された。で、嬉しくなって、買うのだから、出版社の思うツボである。

 マックス・ホルクハイマー(1895-1973)は、ドイツの社会学者。テオドール・W・アドルノ(1903-69)もドイルの哲学者。フランクフルト学派を代表する二人だ。いずれもユダヤ系で第二次大戦中、アメリカに亡命していた。

 進歩して、輝ける未来を約束するはずだった「啓蒙」が、残虐と野蛮に反転してしまった情況を、かなり悲観的、批判的に分析している。しかし、サドや反ユダヤ主義の分析はすばらしく、頷きながら読む。

 もしかしたら、現在は、本書の書かれた1939-44年と、とても似ているのではないかと怖くなる。

「より人間的な心を持った人々は進歩的レッテルに惹き付けられる。しかし広まりつつある経験喪失現象は、進歩的レッテルの支持者たちをも、ついには差異[個人的特性]の敵に変えてしまう。反ユダヤ的なレッテルがはじめて反ユダヤ的なのではない。レッテル貼り的なメンタリティがそもそも反ユダヤ的なのである」。

 レッテル思考とは、訳注によると「個性差を認めず、一括してレッテルをはって処理した気になる思考法。ナチスの単純なスローガン、シンボル操作はそれを利用している」という思考法のこと。

 そう、何だか今の話しを聞いているようだ。社会が複雑化し、高度化し、労働でも家庭でも文化でも、直接的な経験は、当時よりさらに失われている。第一、地球(自然)自体を破壊してしまいそうな勢いなのが現状だ。

「彼ら(フランス市民層=kenyama注)は、ヒトラーの台頭に表現されているような、ファシストの同類たちの勝利をよろこんだのだ。たとえ、それが自分自身を没落させるおそれがあったにしても。いやそれどころか、彼らは自分自身の没落を、これまで彼らが代表してきた社会秩序の公正さの証しとして受けとったのだ」。

「昔から禁酒令が、もっと有毒なしろものを作り出すいとぐちになったように、理論的想像力の閉塞は、政治的狂気を下ごしらえする」。

 コンプライアンスや禁煙、知的財産、個人情報、健康、貧困、自己責任。最近はやりのスローガン(レッテル)である。

 昨今、理論的でなく、単なる「想像力」でさえも貧困化していると思う。何か底が抜けていくようだ。

「支配の公然なる劣悪さにかかわらず、あるいはそれ故に、支配は圧倒的な力を獲得し、個々の人間は、無力さの中で、盲目的従順さによってしか自分の運命に加護を祈ることができなくなる」。

「ファシズムのスローガンの怖さは、まやかしであることが歴然としているのに、なおかつ存続し続ける欺瞞の怖さである」。

 もう手遅れだろうか、と不安になるほど。文化産業を大衆欺瞞として批判する部分など、そんな「産業」に覆われ尽くしてしまった現状に涙するしかない。目先の快楽に溺れるしかないのだろうか。いや、そんな「快楽」さえ知らないのかもしれない。

 しかしながら、そうではないだろう。知らずに落ち込んでいくことを防ぐには、やはり「啓蒙」を批判(批評)しつくす必要がある。そこで見えてくる。

 威勢のいい、耳当たりのいい「お話し(レッテル)」ばかりでは、あまりに薄っぺらい。どこぞの最近の教科書ではないのだ。

 そう言えば、単行本が次々と文庫になりつつあるドゥルーズ。一方でやっと『シネマ』の邦訳が出た。
 法政大学出版局の叢書ウニベルシタスで、装幀が変わっていないのが懐かしい。ドゥルーズだけでなく、デリダ、リオタール、ボードリヤール、アドルノなど「現代思想」の宝庫で、よく買っていた。
 といっても、2巻のうち、今回発行されたのは「シネマ2 時間イメージ」で、「シネマ1」は6月予定だという。やれやれ。

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