山中千尋『Abyss』がいいのだ
山中千尋さんの待望の新作『Abyss』(Verve)が発売された。iTunes Storeでのダウンロード販売も15日から始まっている。

アルバムは、冒頭1曲目が何より大事。試聴するにしても、家で聴くにしても、まず最初に耳に入ってくるからだ。店頭の試聴機で1曲目に魅力がないとまず買わない(こともある)。
新作の1曲目は、Keith Jarrettの「Lucky Southern」。暖かくて優しいメロディーが頭から離れない。単純である。もうお気に入りなのだ。
前作『Lach Doch Mal』も1曲目はすばらしく、前々作は全然だ。
で、全10曲50分を聴き通しても納得の一枚である。曲の並びもちょうどいい。
曲目や作品のキャッチフレーズだった「一期一会の音楽」から、もっとアブストラクトで、アヴァンギャルドな演奏かと、実際に聴いてみるまで不安だったけれど、杞憂だった。それらしい演奏にもスウィング感と熱が感じられる。ちゃんと期待に応えてくれているのである。
ところで、アルバム名の「Abyss(アビス)」は、「千尋」の英訳で、「千尋の谷」であろう。奥深いのだ。もちろん、「奈落の底」ではない。
「山中節」と言ってもいいフレーズやリズム、ソロ等々を満喫し、山中さんの持つ抽き出しやアイディア、趣味、感性の幅広さを感じる。
これまでのアルバムより、フェンダーローズなど「電気音」が多いのも本作の特徴で、更に「奥深い」感が伝わるのだ。
メンバーは、Kendrick Scott(ds)、Vicente Archer(b)。2006年末のツアーのメンバー。学生時代からの友人で、「バンドとしてサウンド」を目指したという。特にKendrick Scottのドラムスは、印象的で昨年の東京TUCでのライブでの熱演が思い浮かぶ。
収録されているのは以下の通り。()内は作曲者。
1、Lucky Southern(Keith Jarrett)
2、The Root Of The Light(Chihiro Yamanaka)
3、Sing Sing Sing - Give Me A Break (Louis Prima - Chihiro Yamanaka)
4、Take Me In Your Arms(Markush/Rotter/Parish)
5、For Heaven's Sake(Edwards/Bretton/Meyey)
6、Giant Steps(John Coltrane)
7、I'm Gonnna Go Fishin' (Duke Elling ton)
8、Forest Star(Bruno Raberg)
9、Being Called(Chihiro Yamanaka)
10、Down Town Loop(Chihiro Yamanaka)
冒頭の1は、ウェルカム・ドリンクではなく、「ようこそ」メロディーだ。作曲者のように「うなる」のではなく、音が「うねる」。最初にこうした音を聴くと、一気に引き込まれていく。買って、まずトレイにCDを滑らせた時に感じる快感である。
前へ前へ、気がせいてつんのめるように。音を刻む右手がよい。山中節のソロと合わせオリジナルのようだ。ベース・ソロも嬉しい。夏のビールが似合う。何といっても「サザン」なのである。
2は。もと「Shooting Star」またの名を「渡良瀬川」。だが、フリーマガジン「The Walker's」のディスクレビューにはアルバム名の「Abyss」との表記も。さまようタイトルをもつ曲だ。これもエレピがうねる、はねる、疾走する。
いつもの山中フレーズが’、多い音数によって、刻まれる。ドラムスが輝き、畳みかけてくる印象的なメロディーだ。
3のイントロは、Chicagoの「Saturday In The Park」。懐かしいという想いにふけるまでもなく、一気にテーマに入る。素敵だ。この瞬間がたまらない。何たらガールズの「Sing Sing Sing」ではない。もちろん、ベニー・グッドマン楽団でもない。
山中オリジナルの「Give Me A Break」とのメドレーだが、ポップなつくり。リズムを背後にピアノが浮かび上がる。ピアノ・ソロが事態の変転を伝え、シンセサイザーが駆け抜ける。ジャズとは、少々違うような気もするが、これが3人の「バンド・サウンド」なのだろう。サイレン(?)も鳴る。そして終わる。
4と言えば、ユタ・ヒップ。ドイツからニューヨークにやってきた。ブルーノートのアルバムでは、英語で自己紹介してから始まる曲だが、本作では3から一転して始まる。「急転直下感」である。3とのコントラスもが素晴らしく、急に歩行者信号が赤になって、歩道の縁に足先に力を入れて立ち止まるようだ。
純正品のジャズと言える。ピアノ・ソロ、どこか懐かしいようなフレーズで嬉しくなる。でも、そこは現代風のピアノ・トリオ・「エイヤ」で始まり、「エイヤ」で終わる。
4までのジェット・コースターのような乗り心地を楽しんだ後の5では、一転してしっとりとしたバラード。
くっきりとしてピアノの音が、心にしみる。優しく慰めてくれるのだ。ベース・ソロも柔らかく、心にしみる。
6、エレピからピアノ、エレピ。何といっても、John Coltraneである。しかし、最初は分からない。最後になって、あのフレーズが登場。不思議なもので、安心する。どなたかの「Giant Steps」だと聴いているだけで辛いのだけれど。
駆け巡るエレピの音を追う。転がり、回るエレピのフレーズ。ピアノに移る。ソロは、Giant Stepsだが、軽やかに流れていく。そしてやっと「Giant Steps」のフレーズが登場。納得するのだ。
7、くっきり叩き込まれたピアノの高音が印象的なスタート。エリントンの特徴的なサウンドが、山中流に調理される。そして、ジャングル・サウンドの密林は、豊かな音の地平だ。
ピアノ・ソロはやっぱり山中節。追いかける魚を、それも大きい魚を。3でも同じだけれども、ちょっと古い曲を素敵に、ふわっと調理した作品が好きである。今回の一番のお気に入り。
8、フリーで、アバンギャルド、アブストラクト。自由・前衛・抽象。どれも好きな言葉で、音楽以外のジャンルであれば大歓迎。で、この曲も最初は不安になるが、ちゃんと楽しめる。どこかエキゾチック。細かいリズムで音を刻むピアノが印象的。エフェクトも効果的にかかっていてよい。
9は、インタールードで短め。
激しく抽象的で、どうしたらいいのか。うねる高音が耳に響く。ドラムスが駆け巡る。
10、タイトルは、ニューヨークの観光バスを狙っているそうだ。
速いリズムとメロディと、規則的なリズムが頭に突き刺さる。音楽は自動的に流れてしまうのか。滑らかに音が連なる。ふと終わる。
ふう、50分強。ピアノだけでなくフェンダー・ローズやシンセサイザーが効果的なのだろう。
そして、中島みゆきなど日本の歌謡曲からのアレンジがない。それらしき雰囲気の曲も無い。前作『Lach Doch Mal』も歌謡曲アレンジはなかったけれど、Roland Kirkの「Serenade To A Cuckoo」が「歌謡曲風」であった。
思い起こせば、山中さんのアルバムは、3枚セット・プラス・1枚で、一回転してきた。
澤野工房からリリースされたのが、『Living Without Friday』、『When October Goes』、『Madrigal』の3枚で、DVD作品『Leaning Forward』が加わる。
ユニバーサル(Verve)に移っての3枚は、『Outside By The Swing』、『Lach Doch Mal』、本作『Abyss』ときて、映像作品が、6月の草月ホールでのライブを収録したDVD作品(10月24日発売予定)だ。
正反合の弁証法的発展である。テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ。『Living Without Friday』や『Outside By The Swing』は自己紹介盤。テーゼだから、ちょっと力が入っている。次に、反応によってちょっと装った『When October Goes』、『Lach Doch Mal』。アンチテーゼだ。
最後に、えいやっと、好きな世界を展開する『Madrigal』と『Abyss』である。ジンテーゼ。止揚だ。
起承転結でもいい。だいいち、「結」は映像作品だろうか。
よく見ると、ジャケットの写真だけなく、中も遠くを見つめるか、こちらを「ギュ」と見つめる視線だ。Abyssである。そこにある山中さんの次のサイクルが楽しみだ。秋のツアーで、その片鱗が覗けるだろう。

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