2007年9月17日

サガンの『悲しみよ こんにちは』と年月

 いつまで暑いのだろうか。厚み10センチを超える本を読み始めたけれど、重い。そんな時、ふとしたきっかけで読んだのがフランソワーズ・サガン(1935-2004)の『悲しみよ こんにちは』(朝吹登水子訳、新潮文庫)である。
 小悪魔のような主人公、17歳のセシルは魅力的。でも、20年前に読んでいたら、それこそ眼の前の現実との違いに、きっと笑ってしまうだけだったろう。

 作家が18歳の時に書いたデビュー作だ。世界的なベストセラーで、以前から知っていたけれど、10代の時に読むほど僕は素直でなかった。

 あらすじは、簡単。40歳の素敵な男やもめの父親と、その娘・セシルが南仏の海岸にいる。次々と恋人をつくる父親もいよいよ再婚しそうになる。しかし、その再婚相手が交通事故で死亡する。セシルがそうした状況に追いやった「かのような」筋立てが魅力。その後、パリに戻って、父娘が前と同じ(?)生活に戻っていくのが切ない。
 局所的には、セシルのボーイフレンド、シリルが不憫だと思うけれど、それはそれ。

 スタンダールの『パルムの僧院』くらいまで遡ればともかく、現代のフランスもの、特に映画を見た時に違和感を感じることが多かった。よって見たくないものは見なかったし、読まなかった。
 どうして人はあそこまでつっけんどんに喧嘩し、すぐに仲直りし、いつの間にかセックスしてしまうのだろうか、と。

 記憶は持続しないのか。『物質と記憶』のベルグソンはフランス人じゃないのか、とかとか。「おふらんす」。文字通りの劣等感、コンプレックスの裏返しだけれど、どうも馴染めなかった。
 通俗的なロマン主義的恋愛映画しか身体にしっくりこなかったのだろう(恥)。それより、抽象的な哲学や経済学が魅力的だった。感情や欲望など、精神分析に任せておけばいいのだ、と。

 「この夏、私は39だった」。で、読んだ『悲しみよ こんにちは』である。
 結論。今も昔も、そうそう人は変わらない。17歳のころに、個人の価値観など固まってしまう。困ったものである。
 そう、罪悪感と死。来世とか、赦しとか。永遠とか。やれやれ、である。でも、こんな風に「やれやれ」と思えるだけ、時間は経過したのだ。20年前だったら、眼の前の小悪魔さんに何をしたか分かったものではない。あれあれ。
 
 しかし、それより、登場する父親とほとんど同じ年齢に自分がなってしまったことの方が、びっくりだ。こんな「大人」になれれば、どれどれ。うーん。まだ、大丈夫だろうか。えーっと。

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