2007年11月19日

論旨には賛成だけれど

 日本で1980年代初頭にブームだった「現代思想」。フーコー、ドゥルーズ、デリダ。ポスト構造主義、ポストモダン、小さな物語、脱構築などなど。
 そこで重要な位置をしめ、今なお重版しつづけているのが浅田彰さんの『構造と力』(1983、勁草書房)である。高校生だった私も読んだ。
 以後四半世紀の思想の流れを追った本上まもるさんの『<ポストモダン>とは何だったのか 1983-2007』(PHP新書)を読んだ。論旨には大賛成だけれど、続いて別名で書かれた論評を読んで唸ってしまった。

 本上さんの別名(?)、志紀島啓名義で書かれた論評は、「ポストモダンはいかに「裏切られた」か」(en-taxi、2007年秋号)である。

 本上まもるさんは1970年神戸生まれ。志紀島さんは論評中で1967年生まれとしている。同一人物である。
 ただ論評の骨子をまもるためには、1967年生まれでないと困ると思うので、PHP新書の生年は誤植か別の意図があるのであろう。

 ちなみに、浅田さんは、1957年神戸生まれ、現在は京都大学経済研究所准教授だ。東浩紀さんは1971年生まれ、私は1968年生まれ(どうでもいい)。

 さて、『<ポストモダン>とは何だったのか 1983-2007』には、同意したくなることばかり。

「経済と政治の大枠を押さえておくことは必要不可欠だ。なぜなら構造を規定するこの二つを無視した心理学と社会学がこの後ではびこることになるからだ」

 著作が分量が多いだけでスカスカの社会学とか、何とかスタディーズとか、アホーザンスとか。書店で本を手に取り、筆者が社会学専攻でないかを確認しないと、本棚に収容できない本を買ってしまうことになる。

「意識や理性によってすべてをコントロールできるという考え方ではなく、われわれの奥底にあるコントロールのきかない異質で過剰なもの、量的な複数の力の絡み合いに、目を向けようとしたのである」

 最近のコンプライアンスとか内部統制とか、無理にコントロールし、異質で過剰なものを押さえ込もうとしているけれど、無駄だと思う。

「端的にいおう。小林秀雄や福田和也、浅田彰にはあって柄谷(行人)にないもの、それは「美学」だ」

 この結論はすごい。

「すべてを「こころの問題」とする安易な癒しの心理学が横行している」

 それで済んでしまえば、どれだけ楽か。しかし、そうでないから数千年、人々は思考し続けてきたと思う。

「無知、開き直り、迷信、プチブル的偽善、多数派の傲慢、大衆の常識、不合理な差別、そういったものに抵抗するのが知性の役割であったはずなのに(このように思っていたのは私だけなのだろうか?)九〇年代以降の知性はむしろそれらを補完する側に回ってしまっている」

 その通り! 異議無し!

 さて、続いてen-taxi所収の「ポストモダンはいかに「裏切られた」か」である。要は浅田彰をきちんと引き継ぐものがいなかったということ。

 志紀島さんは、高校生の時、『構造と力』を読み、浅田彰本人に手紙を書き、当時勤務していた京大人文科学研究所で話をしたそうだ。その後、京大の法学部に入った。でも、浅田彰さんに会いにいかなった。「距離感」だ。

 一方、「第二の浅田彰」と呼ばれた東浩紀さんの『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(新潮社)。しかし、彼はその後、ちがった方向に行ってしまう。オタク評論家とでも言うのだろうか。

 そこで重要なのが生年だそうだ。1967年生まれの志紀島さんは、浅田彰と高校生の時に遭遇し、当時中学1年だった東さんは同時代として体験していない、という。うーん。

 細かく世代を輪切りにして、話をするのは「オタク」の特徴で、同時代で見ていたテレビ・アニメの話題で盛り上がるからだろうと思うけれど、同時代で体験するかどうかは、特に思想に関して、あまり関係ないように思う。全共闘世代のような「連帯感」を求めているとは思えないし。

 もちろんん、東さんは東さんだし、志紀島さんは志紀島さん。いずれにしても、私も同世代(笑)で、志紀島さんの浅田彰への思いの伝わる本と論評でした。

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