2009年1月 3日

批評とPOPのすき間に(2) 神と芸術

 批評は、芸術作品を読み解き、その価値と意味を歴史的に位置づける。しかし、芸術自体が存在しない時、批評は不要。「ノックは無用」。というより、その存在さえ意識されないだろう。現代人が、中世キリスト教神学の緻密な教義体系を意識しないように。
 松宮秀治著『芸術崇拝の思想 - 政教分離とヨーロッパの新しい神』(2008、白水社)は、ヨーロッパという一地域の特定の時代に、「芸術」を「神」にまつりあげていったプロセスをたどる「反・芸術」的な書物だ。

 松宮秀治さんは、1941年東京生まれで、元立命館大学文学部勤務。専門はドイツ文学。

 18世紀のヨーロッパは、激動と偶然が折り重なった「幸福」な時代だった。新古典主義の時代である。

 まず、政教分離によって、キリスト教が社会生活から切り離される。近所に神様はいなくなり、自己に内面化された良心が、勤勉に働くことをすすめ、折しも発達しつつあった資本主義的商業や工業に人びとは従事することになる。
 マックス・ヴェーバーの言うプロテスタンティズムを背景にした、資本主義の精神である。

「西欧のキリスト教がその教義を独自の神学大系にまとめ上げ、それ自体が政治に依存しなくとも「自律性」を維持することができたがゆえに、つまり政治から干渉を断ち切って、自己の存続と発展をみずからの力で推進していく力を蓄えてきたからゆえに、芸術にも「自律的」な価値を与えることができるのである。」(p.63)

 そして、心のすき間を埋めるために「芸術」が作られた。

 18世紀ドイツの美術史家、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンは、『ギリシャ美術模倣論』で、ヨーロッパ文化の底流にギリシャがあることを主張した。主張しただけである。
 しかし、天照大神の神話を信じるように「神話としてのギリシャ」は確立し、ヨーロッパに芸術が生まれたのだ。

「ヴィンケルマンの影響力の強さと大きさは「ギリシャ芸術」がヨーロッパ文化と文明の源泉にして、ヨーロッパ芸術が目標とすべき最高の規範という思想の一般化を果たしたことである。(中略)ギリシャがローマを通じて、何ひとつ継承されなかったゆえに、ギリシャを模倣してヨーロッパを偉大な存在にしようというのが、ヴィンケルマンの主張である。この主張があってはじめてギリシャがヨーロッパ精神に接ぎ木され、あたかもギリシャ精神が不断にヨーロッパ精神に対して伏流水のごとく養分を補給し、それを涵養してきたという「ヨーロッパ・イデオロギー」が一般化され、結果として「神話としてのギリシャ」が形成されてきたのである。」(p.41)

 その結果、以下のようなメンタリティーは徐々に消えていく。絵画が、現実を模写するのは、現実の再現を人間が見るためではなく、絵の中に人が入っていくためだった。再現=表象ではなく、没入=一体化である。

 「前近代の天井画や壁画、古代人の墳墓の天井画や壁画、本朝の宮殿。寺院、権力者たちの建造物に描かれた障壁画の絵画は、いわゆる装飾機能のためのものではなく、儀式、祭式、典礼、行事に応じて、人はその絵のなかに入っていき、絵の世界と一体化するためのものである。前近代の絵は人が今日的意味で鑑賞するために描かれたのではなく、それが生存上の要請であれ、教養のためであれ、また娯楽のためであれ、おのれの身を絵のなかに投げ入れ、その世界と同化できる心性を養っていたのである」(p.10)

「それ以前の時代は芸術はすべてその利用価値、効用価値によって評価されるべきものであり、もし「美」が求められていたとしても、その美は人間の欲望、奢侈、快楽、快適を満足させてくれるものとしてのそれであったいえた。つまり現実的要求の範囲内のものであった。それに対し「自由」と結びついた「美」は現実の欲望を超越し、それとは無縁の地平で求められるべきものであった。」(p.151)

 その背後には「美学」があり、「神学」とは別の形で人間の支え=神を作ったのである。

 更に、「芸術」が神の位置を占めるのと同時並行的に資本主義という経済システムが進歩し、社会全体を覆う。

「とくに西欧の近代資本主義の経済制度は、マックス・ヴェーバーの説明を待つまでもなく、その市民社会の合理的精神に基づくものとして、商品流通の分野のみならず、保険業、サービス業、軍事部門に至るまで、合理的で不確定要因を極力排除しうる価値体系の維持を主眼としている。しかしその市場経済原理の法則の外側に置かれている唯一の商品が「芸術」作品である。合理的な価値算出を大幅に逸脱し、一般的な常識を裏切って法外な高値を付けられれば付けられるほど作品は「芸術」的価値を高めるのである。」(p.16)

 いつの間にか、芸術の価値は市場価格に依存するようになってしまった。

 「職人の作品は市場社会の流通回路に乗ればよいが、芸術作品は社会の栄誉システムや顕彰システムのなかになにがしかの位置を占めなくてはならない。(中略)しかしなんといっても最も効果的で強力な聖性賦与の方法は取引価格の高額化である。」(p.17)

 しかし、それだれでは芸術は「神」になれない。

「芸術が自律化すると、芸術の制作と評価基準が「創造性」「独創性」「個性」というものになる。ヨーロッパの伝統において「創造する」(create)という言葉は神のみの属性を表わす言葉であって、世界の聖なる創造ということを明確な背景として使われてきた。」(p.64)

 そして、「美学」が要請される。

「「美学」とは芸術作品の具体的な理解や作品制作における具体的な知識に関しては何ひとつ役に立つことのない学なのだった。そんな美学が「芸術」の歴史に重要な役割を演じたのは、芸術の倫理的価値を保証する学であったためである。きわめて逆説的な事実であるが、自律的な価値を要求する芸術が、その倫理的な価値を「美学」によって保証してもらうことが必要だったのである。カント、メンデルスゾーンなどの考えていたその時代の美学とは、「趣味判断」、つまり「美的判断」それ自体が美の普遍性と美の普遍的価値を認識する「美的認識」の特性を明らかにする学であるということ、またその美的認識とは個々人の好き嫌いの次元にとどまる認識ではなく、その認識能力自体が高度の人格性と倫理性を基盤にしているものであることを明らかにするものであった。」(p.137)

 さらに同時代の、結果として、極めて特殊な世界が登場したのだ。思想的に強気で、前のめりな時代、モダニズムである。

「西欧の合理主義哲学と啓蒙主義哲学をのぞいて、いかなる思想体系も人間の絶対的な優位性を主張したものは世界史上存在しなかったことである。人間とは神や神々や仏や天といった絶対者を前にして、つねに自己の卑小さ、矮小さ、無力さを自覚させられる文化体系、思想体系の中で生きてきたのだった。」(p.89-90)

「ユートピアとは東洋的な所与の世界としての理想郷ではなく、絶えず理念世界を追究するための目標として想定される理想像であると同時に、実践的活動としては現状に満足することなく、常によりよき状態の追求へと目標をグレードアップしていく思想である。」(p.110)

 ほとんど21世紀初頭、今の風景と同じである。

 ところが、そこで芸術家は一種の仮面をかぶることになる。いや、そうでないとやっていけない境遇に追い込まれるのだ。

「芸術が宗教となり、芸術家が神の位置に昇りつめたとき、神の栄光をわがものにするのは良いが、神ならぬ人間が神の振舞いをみずからの役割として演じていくのは、間違いなく荷が重すぎることであろう。近代の芸術家がそれが本物で、真摯な芸術家であればあるほど、狂気を演じ続けるか、あるいはみずから狂気に陥るか、または道化師を演じ、トリックスターを演じ、無頼の徒を演じ、さらには自殺し、自己破壊の道を選んだりするのは、神を演じる重みを軽減させようとする必然の選択である。」(p.65)

 つまり、「殉教者的芸術家」「求道者的芸術家像」「反逆者的芸術家像」「道化師的芸術家像」などなど、いわゆるロマン主義的な作家像である。夭折の詩人、心中、入水自殺などなど色々な属性を生んだ制度だ。

 以来、約200年間、芸術は天丼に君臨し、ヨーロッパはその収蔵品を世界中に貸与し、その文化的ヘゲモニーを握り続けている。

 しかし、そんなモダニズムも終わりを告げようとしている。何といっても、まずは、美学の没落が著しい。

「「美学」とは何か、それはどんな学問なのかは専門家でも答えられないであろう。なぜなら、「美学」の専門家が今日存在すること自体がとてつもないアナクロニズムで、それは完全に歴史的な役割を果たし終えており、没落し、無用で無意義な学問になりさがってしまっているからである。(中略)本質的に居候学問であって、なんら独立的な学問領域も方法論ももたないものである。(中略)哲学の近辺につきまとうことでなんとか官学アカデミーのなかに潜り込みを果たし、何か深遠な学という印象を与えることだけで生きのびてきた学問にすぎなかった。」(p.133-134)

 ひどい言われようだ。

 さらに下記のように松宮氏は書くが、すでに「芸術否定論」は徐々に生まれつつあるのではないか。

「よく考えてみると、きわめて不思議なことといえるが、前近代世界にあれほど遍在していた「芸術否定論」が近代になると、なぜすっかり姿を消してしまったのか。なぜ今日ではだれもが正面切って、たとえば小説に対して「たかだか小説にすぎないじゃないか」、あるいは絵に対して「たかだか絵にすぎないじゃないか」と公然とつっかかっていったりりなくなってしまったのか。またもっと大胆に「たかだ芸術じゃないか」とか「芸術のどこが偉いというんじゃい」と芸術に対して挑戦的に否定論をぶちまける人がなぜいなくなってしまったのか。」(p.221)

「西欧中世のキリスト教社会で、「わたしは神なんて信じてもいませんし、存在するとも思っていません」と公然といえなかっただけでなく、家族間でもまた恋人や許嫁のあいだでもいえなったはずだ。「芸術」否定論が公然を表明されないのは、それが近代の「神」だからである。」(p.222)

 そうして近代の「神」に対する畏敬の念は、徐々に消え去っている。しかし、芸術に替わる「神」はどこにいるのだろうか。いなくても構わない社会と人間が生まれたのだろうか。

 その時代は、資本主義の市場における価格決定と芸術は無関係になるのだろうか。POP広告は不要になるのか。もちろん、批評も不要になりそうだ。
 超越的なもの(こと)に対する感性が不要な時代がきている。すべてがフラットに併存する。「芸術のどこが偉いというんじゃい」という声は、聞こえなくとも、すでに前提になっているかのようだ。

 超越性を復活させるといいのだろうか。どんな「超越」だろうか。不安である。

 ところで、松宮氏は、小説について以下のように記す。

「18世紀以後のヨーロッパ芸術史で唯一、独創的で創造的な作品を生み出してきた分野はおそらく「小説」以外の分野に存在しないだろう。」(p.65)

 小説に芸術無き時代の「神」のヒントがあるのだろうか。まさか。
(つづく?)

【閑話休題】

 孫引きになってしまうのだけれど、とても嬉しくなる引用が本書にあったので、記しておく。

 ヴォルフガング・シヴェルブシュの『楽園・味覚・理性 - 嗜好品の歴史 』から。

「コーヒー、茶、チョコレートなどの非アルコール系のホット・ドリンクがヨーロッパの食事文化にしっかりと根を下ろすまでは、アルコールは今日の私たちには想像も及ばないほど中心的な役割を担っていた。アルコールは嗜好品であると同時に、食糧でもあった。中世の人びとはことあるごとにワインやビールで酔っ払った。当時はまだやたら数の多かった祭日には、とくにそうだった。(1660年のパリでは年間103日の祭日が祝われた)」(p.126)

 すばらしい「酔っ払い文化」、「酩酊文化」である。諸般の困難はさておき、21世紀が新しい中世的な世間になることを願うばかりだ。

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