2009年1月28日

空間そして平面それも楽観的に(7)都市

 都市を考えてみる。
 電子テクノロジーの発達により、街はディスプレイで溢れ、それもコンピューターグラフィック(CG)を使った実態のない勝手な空想、虚像が氾濫している。
 象徴的な体系によって支配された古典的なポリスとしての都市ではなく、アメーバのように拡がり外部との境界を失った都市。それは、エレクトリック・メディアに覆われた表象的映像の溢れるシミュレーション都市、東京。そこでは、通信ケーブルを通じてあらゆる情報が錯綜し、自己増殖を続ける、しまいにはお金さえそこを通じて流通する。

 そうした情報を使い、あらゆる出来事が事前にシミュレーションされ、また一人一人の政治的意志も「世論」という形で、収集され、操作される。映像が現実を模倣するだけではなく、現実が映像を模倣する都市。そこには、もはや中心がなく、それぞれのディスプレイ、コンピューター端末が偏在する形で、それぞれ中心となる。今にもそれは、フーコーが明らかにした「偏在する権力」をも想定させる構図でもある。

 そうした都市に対して、かつて、中心対周縁、劇場都市といった形で解釈を加えていった都市の文化記号論とは、失われた有機的全体性へのノスタルジックな一種のフィクションであったのだ。そうした議論は現実の前でまったく無力であり、後向きの可能性しか残されていない。我々は、こうした最新テクノロジーが切り拓いた新しいメディア空間をいかに生き抜くかの可能性を模索しなくてはならない。新しい文化は、この高解像度メディアを巧く使うことによって、創造され、新しい人間の地平を拓くのだ。

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