2009年10月20日

ドイツとイタリア、音楽の芸術とポピュラー

 2004年の山本七平賞を受賞した石井宏さんの『反音楽史 さらば、ベートーヴェン』(2004、新潮社)を読んだ。小中学校の音楽室に肖像画が並ぶベートーヴェンら楽聖の「神話」をことごとく否定する。
 特定の歴史的条件から生まれた、いわゆる「クラシック音楽」が、いかに偏った意識によって「発見」され、それが20世紀に生まれた「ジャズ」によって、いかに崩されていくかをたどる。

 音楽の授業と、家で聴くレコードなどの音楽が、同じ「音楽」という言葉を使っていながらも、「どうも、違うなあ?」と感じたことのなる御仁には「なール」と納得の本である。単純に類型化しすぎているかもしれないが。

 石井さんは、1930年生まれの音楽評論家で、自由な立場で音楽について辛口な評論活動を続けている。

 もともと「音楽」は、貴族も含め、庶民、つまり人々に親しまれ、楽しまれてきたものだった。ところが、経済的、政治的後進国だった19世紀ドイツが、カント、ヘーゲル、ヴェートーベンといった哲学、文学、音学の巨人たちの偶然の登場にかこつけて、美と崇高を体現する形式と精神性をそなえた音楽こそがすばらしいと「音楽史」を規定した。
 いわゆる聞きやすくて楽しい「ポピュラーな音楽」は低級だとして、それまでのイタリアを中心とした「楽しい音楽」を否定、無視したことで既存の「音楽史」が生まれたとする。だから、『反音楽史』なのである。

 そのことが、作曲者至上主義で、楽譜通り演奏することがすばらしいという、とても厳格で偏った(?)音楽観が生まれたとする。ソナタ形式は、「正反合」の弁証法を体現したものなのだ。すごいのだ。

 そう。ニーチェがドイツ美学の王様の一人、ワグナーと決別するのは、必然で弁証法から系譜学へと流れる歴史を先取りしていた(?)。

 そして、それに対する「反」が、大きな流れとなって登場するのが、20世紀のニューオリンズ、デキシーランド・ジャズだというのが、筆者の見立て。作曲者から演奏者へ。本来の音楽の姿に戻ったというわけだ。

 そんな見立て自体が「弁証法的」な気もしないではないが、色々とクラシックを聴きたくなるので、とても酔い、ちがう! 良い本である。

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