ゆきゆきて大晦日、ゆけ年、こい年。
年末の街なのに(だから?)、いつもより人は少なく、歩きやすい。季節外れのように思えるイチョウの落ち葉が歩道を埋める。掃除する人はいない。オフィスビル全体がお休みだから。

写真は九州新幹線の「つばめ」号。以前は、東京・大阪間を走っていたが、今は八代と鹿児島の間に出稼ぎ中である。再来年には博多まで来るはず。
21世紀が2001年から始まったように、00年代は来年いっぱいある(はず)。ゼロ世代とかいって、早めにそれを終わらせたい人は、次の意匠、区切り、キャッチコピーがほしいのだろう。10年代。
1910年だと、夏目漱石が『門』を発表し、雑誌「白樺」が創刊された年。昭和10年だと、1935年で、夢野久作の「ドグラ・マグラ」が発表され、雑誌「日本浪漫派」が創刊した年。
ちなみに平成は22年で、偶数だけれど区切りは良くない。
昭和22年は、日本国憲法が施行された。大正に22年はなくて、明治22年は大日本帝国憲法が発布された(翌年、施行)。
振り返るのは楽である。今になってみれば、クリスマスの航空機テロ未遂の容疑者を疑う情報はたくさん見つかるだろう。悔しいことと思う。でも、「その時」には分からない。地震、雷、火事いずれも、そう。
すべての因果関係を把握する「神」のような存在があるとして、どれだか楽しいかは疑問。いくら素晴らしいとはいえ、同じ映画を何度観るのにも限界がある。それに、それしか見ないのだから。
のべ35万時間くらいの超大作なら、2回くらい観るうちに死んでしまうからいいけれど、神だと死ぬことできないから大変だ。
少しずつ認識して、その必然性を楽しむ余裕が自由。来年はどんなことがあるだろう。と、期待しても分からないので、ケセラセラ。
どう転んでも、来年だけでなく、次の元号の10年や22年、2110年に何が起こるかなぞ分からないのだから。
九州新幹線だって、本当に博多まで来るかはその時になってみないと分からない。過去からの類推では、大丈夫だと思うけれど。
よい落としを、何という変換か!
良いお年を。

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