内田百間の貧乏と貨幣
新年を迎えた。今年もよろしくお願いいたします。
で、さて、以前、福武文庫から『新・大貧帳』などのシリーズが出版されたときには、驚いた(その後、福武文庫自体が無くなったことにも驚いたが)。
かつて、漱石全集を岩波書店から出版する際、仮名遣いや活用語尾について「校正文法」を作った百間の旧仮名使いを、新仮名遣いに中村武志が改めてしまったのだ。最後まで旧仮名旧漢字にこだわりつづけた百間が見たら、目をむいて絶句しそうである。

写真は全く無関係の空き地である。以前は公園だったはずだ。貨幣とは余り関係なさそうな法人が公園を潰して、空き地にした(?)。
さて、この点はともかくとして、借金王・百間の「借金随筆」を集めたこのアンソロジーはえてして暗くなってしまいそうな借金に関する、極めて明るい随筆になっていた。
家庭生活とか、内面の苦悩などという「小説」にありがちな表現は一切ないのが、百間の魅力なのであり、そんなことを書くより、もっと読んで面白いことが書いてある。内面の苦悩や何かを書かないで済ます、手っ取り早い方法として、百間は小説ではなく、随筆を書き続けたのではなかろうか。もちろん、単なるカラ元気で書いた訳ではなく、その明るさは、単なる強がりではなくはっきりとした背景によって支えられている。
「百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相にすぎない。或は、更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものではなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。
実際に就いて考えるに、吾人は決して金を持っていない。少なくとも自分は、金を持たない。金とは、常に、受取る前か、又はつかった後かの観念である。受取る前には、まだ受取っていないから持ってはいない。しかし、金に対する憧憬がある。費った後には、つかってしまったから、もう持っていない。後に残っているものは悔恨である。そうして、この悔恨は、直接に憧憬から続いているのが普通である。それは丁度、時の認識と相似する。過去は直接に未来につながり、現在というものは存在しない。一瞬の間に、その前は過去となりその次ぎは未来である。その一瞬にも、時の長さはなくて、過去と未来はすぐに続いている。幾何学の線のような、幅のない一筋を想像して、それが現在だと思っている。Time is money.金は時の現在の如きものである。そんなものは世の中に存在しない。吾人は所有しない。所有する事は不可能である。」
このように百間は書いている。
かつて、貨幣の問題、言い換えるならば価値はどこからくるかについて、柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』の中で、マルクス『資本論』における「価値形態論」をとりあげ、そこには「命がけの飛躍」があるとしたり、岩井克人が、『ヴェニスの商人の資本論』において、貨幣の背後に一方的贈与という不等価交換の契機をみたり、あるいは、浅田彰が、『逃走論』の中で、メタ・レベルでありながらオブジェクト・レベルにあるという逆説的な媒介としての貨幣をレポートしてみたり、様々な形でお金についての議論が行なわれてきた。もちろん、こうした議論は、マルクスに端を発し、マルクスを読むといった文脈を離れ、意味や記号についての考察や現代思想、批評へと広がっていくが、それはここでは関係がない。
ここで驚くべきは、お金は交換されることによってのみお金なのであって、ただ持っているだけでは、次の瞬間に交換できるであろうという期待だけしかないので、それはお金ではなく、その期待が、それをお金にしている、つまり「観念上の錯誤」である、という点に百間は今から丁度80年前、1930年にこのことを書いているということだ。
お金とは何か、が極めて難しい問題であることに、百間は高利貸しとの付き合いに中で身を以て、切実に答えたのであろう。そしてそのことは、百間を神経症の作家とかユーモア作家とラベルを貼ることとは、一切無関係の百間の思想を読む作業だといえよう。
だが、こうして把握されたお金は、使うこと・借りることにこそ真骨頂があるのであり使うために働いたり(とは言っても、百間が借金のために膨大な量の随筆を書いたから、今こうして楽しめるわけだが)、ましてや蓄めるなどの行為は、百間には考えられない所業なのである。何もないところからお金を生み出し、まだ出来てもいない原稿の稿料をすぐに使ってしまうこと。まさしく錬金術。言うのは簡単だが、実行するのはなかなかしんどい。下手に実行すると、それこそ首をくくらなければならなくなる。当時より、事態はかなり悪化していて「サラ金」などと言うものもあり、殺されてしまうかもしれない(ところが、そのサラ金自体が金融規制とコンプライアンス重視で息の根を止められそうなのだから、怖い)。マネーゲームが流行る今日、お金はどんどん実体化していき、それこそが究極の目的になってしまったりもする。
以前、話題になった「日本はお金持ちなのだから返さなくてもいいでしょう」というある債務国の誰だかの発言に見られる通り、借りたもの勝のお金の世界である。もう少し違うお金の捉え方を考えてみると良いと思うのだが。その意味で、百間は現代の思想家なのである。
もちろん、時間とお金の認識をパラレルに並べることは、時間が直線的に流れないことを知ってしまった僕たちには、おもしろいとは思えても、正確だとはいいがたい。しかし、百間がユーモア作家であるとしたら、そのおもしろさは、そこにこそあるのであり、そこに、いま百間を読む意味があるのだと思う。
Time is money.「時は金なり」。時間は大切なものであり、大事にしなくてはならない。そんな通俗的な解釈とはまったく別の、お金に「大切な」などの余計な意味を付け加えない、それこそ日頃は目にとまらない字義通りの解釈を提示すること。
また、もしそれ以上に字義通り解釈するなら、ベルグソンのように時間を捉えて、過去とは常に現在に在り、現在において記憶という形で地平をなしている、と言うならば、お金とは常に現在の交換に在り、現在において観念という形で地平をなしている、とも言える。つまり、未来の交換は、決して保証されているわけではなく、すべては現在に掛かっていて、そこから類推するしかない。そして、それは実体的にはどこにも無い。
とは言っても、こんなふうに百間が考えていたかはともかくとして、「百間を読む」作業は、こんな楽しみが待っている。誰でも知っている「格言(?)」をズラすこと、これを脱−構築と呼ぶのは恥ずかしいけれど、僕はここに、戦前の作家の光を見る。何気ない表現の「明るさ」は、誰にも負けない。この「明るさ」とは、色々なものを照らし、読者をも光らせる「明るさ」のことである。
夜寝る前に、ベッドの中で読むにふさわしい本である。そう、今日見る夢は「初夢」なのだ。

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