2012年1月26日

読んでも良いけど、時間の無駄。それより新しいCDを聴こう!

 何かについて書くとは、それを読む人の「利益」になって欲しいからである。急いで付け加えよう。「利益」とは、儲かる、嬉しいなどといった肯定的という意味だけではない。批判や否定的意見も、広い意味での読んだ人の「利益」(違った視点を提供する、知的刺激になる、行動のきっかけになる)になるなら、広い意味で取り上げる価値がある。普通の読解能力があるのなら、その文章のニュアンスや機微も感じ取れるだろう。
 何かを人に知って欲しいから、聴いて欲しいから文章を書く。音楽研究でも、評論でも読んで、続いて音楽が聞きたくなれば最高だ。
 ところが、批判をけなすこととしか理解できない。その上に、自らの責任にまったく触れない下らない本がある。誰の「利益」にもならないから、無視するのが一番で、言及するのもばかばかしい「トンデモ本」である。中山康樹さんの『かんちがい音楽評論 JAZZ編』(河出書房新社)。文字通り、この書を捨て街に出よう、音楽に浸ろう。

 裏返すと、この本は、批判の対象をみずから演じている高度な「文芸作品」とも言える。そうでないと、彼が専門誌編集長を辞めて以来、生き延びてきた理由が分からない。百歩譲ろう。

 ジャズ・ピアニスト・山中千尋さんが本書の前半に何度も取り上げられている。同じ雑誌で連載されたからと中山さんは言い訳するが、自説を説くためのネタにするには登場回数が多すぎると思う。
 アルバム『Reminiscence』のジャケットが3種類あることや、バーナード・バーディーが参加している曲数といった外形的なことを批判するが、アルバムを聴かないで、言及しているようだ。少なくともこの8年間、東京都内で開催された山中さんのライブ会場で中山さんを見たことはない。ほとんどすべてに行っている。中山さんは、ライブ派でないから、いいのかな。

 ところが、、唐突に、根拠や説明もなく、「ジャズ評論家らしいひと言を加えるなら、本質的にピアニストではなく、「作曲の人」であるように思う」は、ピアニストに対して失礼だろう。中山さんは、本質的にジャズ評論家ではなく、単なる「妄想家(デマゴーグ)」であるように思う、という言葉を捧げよう。

 かつては、かっこよくあこがれだった、ジャズの分かる大人が、ネット上の発言や小競り合いで、そうではない(ジャズを聴く大人はかっこよくない)ことが露呈したと言うけれど、確かに、中山さんのような書き手がいればかっこよくない。

 しかし、本書で、中山さんの矛盾的魅力と被害妄想は堪能できるのだ。

 「ミュージシャンが書く文章」は、「「楽器ができないくせにエラソーにしている評論家」など比べものにならないくらい信頼でき、彼らが言うことは絶対的に正しい」と読者が信じているとする部分など、極端な中山さんの被害妄想である。映画や料理、ロックについては、「批評・評論」と「実践・行為」が別物との認識があるのに、一部のジャズ・ファンには区別がないと言うのも同様であろう。

 入門書にいつも登場するMiles Davis『Kind Of Blue』やBill Evans『Waltz For Debby』は。ジャズの最高峰で、「ジャズに不慣れな耳に即座にできるようなものではない」とし、「初心者がそれらを聴き、理解できるほうがおかしい」。中山さんの本を読む人、愛読者はどんなカルトなのか。さらに、入門書を書いてきたが、「初心者や入門者のために書こうと考えたことはなく」となると言葉を失う。

 「個人的には、ミュージシャンに限らず、作り手・送り手側に立つ人間は、その作品がいかなる評価を受けようとも、基本的には無言であるべきと思う」とするなら、中山さん本人もいずれに黙るのだろう。大西順子さん本人によるアルバム評について反論が、「かんちがい」だとしても、それを更に取り上げて、反論するのは二重に言っていることと書いていることが矛盾しないだろうか。そうした矛盾を飲み込む姿勢が中山さんの魅力ではある。

 菊地成孔さんの本について、事実関係や中身について批判している。その正否については触れないが、チック・コリアやキース・ジャレットと自らを同列に並べる菊地さんの「芸」を楽しめない狭量さは悲しい。テリトリーに厳しい鮎のようだ。

 しかし、根拠もなく、一方的に断言する(マイルスの新譜を聴いて「くー、たまらん」といった伝達可能性を放棄した表現が得意な筆者だから仕方ない)だけで、元「スイング・ジャーナル」編集長として、こんな情況、ジャズ雑誌、評論業界にした責任の一端には触れない。

 レコード会社の人が選考するオススメ記事を掲載する「ジャズ批評」が、編集権を放棄しているとするが、中山さんのいた「スイング・ジャーナル」とどう違うのか。ビラとチラシの違いしかないと思う。その違いに「芸」を感じる感受性を持ち合わせているつもりだが、それではダメだったのではないか。

「なぜ「難解な映画や書物」は許され、「難解な音楽」は、「音楽ではない」というところまで押しやられてしまったのだろう。「難解だからこそ楽しいものがある」という価値観は、いつ、消されたのか」も妙である。そうした価値観は消えていない。中には、楽しいものだけが音楽だと言う人もいるだろう。しかし、難解でないと音楽でない、と脅迫するような中山さんは、まさに無責任だ。そもそも、読者を誘う責任を放棄してきたのだから。

 中山さんによる評論家の定義がある。

 「ミュージシャンにインタヴューをする。ライナーノーツを書く。コンサートやライヴに行く。新しい才能やあまり知られていないミュージシャンやアルバムを紹介する」。その通り。

 ところが、「「音楽を書く」という行為において最大の難関に挙げられる「誰もが知っているミュージシャンやアルバムについて書く」こと」を評論家の職務のように言うけれど、誰もが知っているスタンダードをライヴで演奏することも同じではないか。
 そう、演奏者と評論家の立場の違いを強調する点も、評論家の泣き言でしかない。そう、演奏者は、演奏だけして黙っていればいい、というのであれば、評論家にずいぶん都合の良い言い草だ。書くことで立場を失うというが、音楽家(演奏家)だって、その瞬間に紡ぎ出す「音楽」で作品を損なってしまうことがある。書き直せる本とは違った緊張感があるだろう。

 そもそも、先輩の日本人ジャズミュージシャンを批判せず、有名な外人のみを批判するのはいけない、としつつも本文中では、亡くなった中村とうようさんと油井正一さんを批判するだけで、先輩の評論家、岩浪洋三さんや、同世代の評論家、小川隆夫さんを批判しない(きっと、彼らは素晴らしい評論家なのだ)。それで、音楽家が書く文章は、その音楽家のファンに守られている言っても、説得力はないだろう。評論家も、どっちもどっち。

 こんな筆者が、「最後のジャズ評論家」などと呼ばれるなら、早く最後にして、終わって欲しい。こんな「評論家」はいらない。もちろん、ジャズ・ピアニスト・山中千尋さんが言及する「ジャズ評論家」は存在しない、と断言する中山さんにとって、「ジャズ評論家」など、すでに日本にいないのだから(要は自分だけが評論家だとヘゲモニーを握りたいだけだろう)、問題ない。

 140字のtwitter(短い文章と言う意味だろう。中山さんのような弛緩した文章では140字ではほとんど何も表現できない)と、読書体験を対比させたり、レコード(CD)を聴き込む人と、ライブを楽しみ人を対立させたりして、後者を低く位置づけるけれど、それは単なる分類でしかない。自分の体験しか語れない・基準にできないのは、人として仕方ないけれど、今聴いている人たちを、バカにするような評論家には、もっと謙虚になって欲しい。

 それに、ファンに守られているのは、音楽家も、周りとつるむ中山さんのような評論家も同じだろう。文学や絵画などの評論に膾炙したとは思えない筆者の不勉強さにびっくりである。

 洋楽が聴かれなくなったというが、それでいいではないか。産業として、レコード会社、プロダクションがカラオケを成長させただけで、洋楽うんぬんとは関係がない。ギターを弾く学生が60、70年代の多かったのと、カラオケはそう違いはない。「神田川」である。分かりやすい、面白いことだけを目指した音楽を批判するけれど、この本こそ、それだけ、つまり面白いだけである。

 どうして、音楽を楽しむことに上下、善し悪しがあるのだろうか。邪な楽しみ方があってもいいではないか。好き嫌いは仕方ない。嫌いなものを聴かされるのは辛い。マッサージとは違うから、辛い中で見えてくる素晴らしい音楽もあるだろう。しかし、人の楽しみ方に、意見があるのなら、その人をけなすのではなく、「北風と太陽」の、いわゆる太陽戦術をとるべきではないだろうか。もっと楽しい音楽があるよ、こんな楽しみ方があるよ。

 クローズドなサークルで、聴く者をおどすようなやり方は、権力(カルト)のやり方ではないか。「スイング・ジャーナル」で、編集長の権力性と、ディスクのレビューアーの関係を自覚している中山さんは、あえて虚勢を張っているのだろうか。

 さようなら中山さん。

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