2012年1月22日

勘違いする人

 音楽評論は、難しいと思う。かんちがいすることもある。それは、「音を文字で説明する」などという次元の話ではない。
 音楽評論は、学術研究、つまり「音楽」を「学」として研究し、その成果を発表するわけではない。作品を享受する人、演奏する人、作る人の間(あわい)に立って、人に読ませる「評論」を、それも同時代性を帯びた形で、書かなければならないからだ。

 もちろん、「音楽評論」とは、人に読ませる必要はなく、学術論文のように、研究者が必要に応じて、或いはやむにやまれず読むものであり、自発的に読みたくなるような「わざ」や「芸」は不要だとする立場もあるだろう。

 例えば「文学」では、発表される媒体によって、棲み分けがなされている。文芸誌とよばれる「文學界」、「新潮」などに掲載される文芸評論は、文芸評論家が執筆し、新作や作家について、意義付けや評価を下し、広い意味での情報を読者に提供している。
 「日本近代文学再検討」といった歴史的な評論もあるが、そこにも今、小説(文学)を読んでいる人へ伝えたいことが詰めこまれている。極端なことを言えば、文学史に残る古い新事実よりも、読者の記憶と印象に残る分析と評論が求められている。

 一方、大学の文学部などの教員が、自らの研究生を発表するのは、大学の紀要や専門書であったり、単行本として発行される文学研究書である。それは、文芸誌より少ない限定された読者が、研究のため、或いは参考・興味のために読む論文だ。同時代性より歴史性。つまらなくても、必要であれば研究者は読むのである。もちろん、評論家の多くは、文芸評論の原稿料だけでは、食っていけないので大学(学校)に勤務しているが、そこは書き分け、棲み分けがあるといえよう。

 美術でも音楽の世界でも、基本的な構図は同じである。「評論家」と「研究者」の二つの役割があると言うことだ。まったく分離しているのではなく、相互乗り入れ、参照関係、交流はあるだろう。もともとは、そのジャンルが好きで、興味があって、評論家や研究者になったのだから。

 ただ、音楽の場合は、ちょっと面倒な要素が入っている。「レコード会社」である(文芸誌を発行している文芸出版社は似ているかも)。
 今でこそ、レコード(CD)が売れなくなり、毎月国内販売されるレコードは減り、余禄の総額は減っているだろうが、少ないパイを奪い合うと言う意味では、評論家にとって、レコード会社の存在感は増しているかもしれない。評論家の収入源であるレコードに付属するライーナー・ノーツ執筆、雑誌のアルバム・レビュー執筆である。雑誌は、レコード会社の広告費で成り立っている。

 商品にケチをつけられることを、メーカーは極度に嫌う。年間数パーセント、デフレで不景気な昨今、前年並みを維持することに汲々とするメーカーは、少しでも売れ行きに響くネガティブ情報に敏感だ。

 であるがゆえに、自らが原稿料を払っているライーナーノーツの筆者(評論家)が、商品にネガティブな原稿を書くことを許さない。評論家もレコード会社の顔色を見て仕事をする。
 しかし、そもそも資本主義社会の資本主義企業からお金を貰っているわけで、そのことに、必要以上に驚く必要はない。当たり前だ。芸の無い評論家は、幇間(太鼓持ち)となる。

 「芸」を凝らして、読者にメッセージを伝えたり、敢えて書かないことで、その書かないこと(人や作品)を批判する「技」が生まれる。「買ってはいけない」と言われると買いたくなるし、「聴け」と言われると聞きたく無くなる。文字通りの意味と、書いてあることの意味が捩れている文芸作品は「クレタ人」のパラドックスのように読者を魅了する。

 こんなことを思いついたのは、その160ページくらいの中身自体が、本のタイトルそのものを文字通り体現している「文芸作品」、小説(?)を読んだからだ。中山康樹『かんちがい音楽評論 JAZZ編』(河出書房新社)である。「はじめに」で、「誰がいちばんかんちがいなのか」を「筆者自身であることを願いながら」と書き、本については、最初から種明かしされている。
 そう、勘違いしているのは中山さんである。

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