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    <updated>2010-02-26T14:00:50Z</updated>
    <subtitle>お酒とジャズが大好きです</subtitle>
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    <title>山中千尋さん、渡欧前の東京TUCは大盛況</title>
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    <published>2010-02-23T08:42:34Z</published>
    <updated>2010-02-26T14:00:50Z</updated>

    <summary>　１月30日に開かれた山中千尋さんの東京TUC（サイトがリニューアルした。かっこ...</summary>
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        <category term="山中千尋" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　１月30日に開かれた山中千尋さんの<a href="http://www.tokyotuc.com/">東京TUC</a>（サイトがリニューアルした。かっこよし）でのライブは大盛況だった。TUCでは、昨年（09年）６月の<a href="http://www.kenyama.net/2009/06/post-243.html">ピアノ・デュオ</a>以来となり、今回はピアノ・トリオで舞台のしつらえも変わって、ぎっしり満員。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="TUC100130.jpg" src="http://www.kenyama.net/blog/images/TUC100130.jpg" width="100" height="150" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
　演奏もご機嫌で、たっぷり土曜の午後を楽しんだ。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　会場に入って、まずびっくり。ピアノの置かれている位置が変わっている。そのため、客席も多い。そして、超満員。<br />
　舞台向かって左端にあったピアノが右端に移り、その分、ベースとドラムスも右にずれる。かどの三角コーナーに凝縮されたトリオ。<br />
　支配人の田中さんによる熱のこもったスピーチと、TUCでのライブ招待券プレゼントもあって、盛り上がる。ハイボールをなめる。<br />
　開演時刻を少し回った16時40分、緑のドレスと黒の素敵なハイヒールで山中さんが登場。</p>

<p>　ピアノの山中千尋さんのほか、メンバーは、岡田圭太(ds)、須川崇志 (b)。</p>

<p>　演奏したの以下の通り。</p>

<p>【ファースト】<br />
１、Sing Sing Sing - Give Me A Break<br />
２、ルッフ・ルー<br />
３、S.L.S.<br />
４、Take Five<br />
５、Carillon<br />
６、So Long<br />
７、RTG</p>

<p>【セカンド】<br />
８、Living Without Friday<br />
９、Giant Steps<br />
10、？<br />
11、アバンゼ？<br />
12、Hackensack<br />
13、Sabot<br />
14、Yagibushi<br />
（アンコール）<br />
15、Tennessee Waltz<br />
16、Smoke Gets In Your Eyes<br />
17、Airmail Special</p>

<p>　心地よい１のイントロでライブがスタート。<br />
　若いイケメンのベーシストに指示が飛ぶ。最初から激しいので、大丈夫かと不安になるくらい。ドラムスも良い。エフェクトも抜群に効いて、イエーいである。<br />
　２は一転して、ゆっくり。ドラムスがコキコキ鳴らす。ベース・ソロがいい。若いので嬉しくニコニコだ。といっても、徐々に力強さを増してくるピアノに聞き入る。</p>

<p>　ちなみにドラムスの岡田さんのキャッチフレーズは「イケメンのへび」で、須川さんのは「イチゴちゃん」、ストロベリーだそうだ。一方、和菓子の食べられない山中さんは、いくらトライしてもだめだとして、次の曲に突入するかと思えば、ニューヨークで通った映画学校の話に。映画が好きで、どうなっているのか知りたくて撮ってみたという。折角なので、何らかの形で公開して欲しいモノだ。</p>

<p>　で、始まった３。力強い感じのドラムスとピアノソロ。ヒールの音も心地よい。めくるめく演奏が展開される。５は軽快なイントロで始まり、嬉しいドラムスのソロを聴く。５は、あまりライブで演奏していない曲。アルバム収録より早い、激しい。見違えるようにすごい。背中の汗がまぶしい。<br />
　「私のバンドだから」。<br />
　６では。うたいながらピアノをたたく山中さん。素敵に優しいメロディーだ。すぐにでも会いたいものだ。７はイントロを弾きながら、ベーシストに譜面を渡す。そして、１時間以上の熱演終了。17時53分。</p>

<p>　入れ替わりだが、ほとんどの人が通しで残る。追加の注文をする。</p>

<p>　18時30分過ぎ、会場が暗くなって3人が登場する。<br />
　優しいピアノのイントロで始まるものの、当然賑やかに終わる８では、ベースのソロを楽しむ。コルトレーンで有名な９では、ピアノ・バーのエフェクトが心地よく、いい感じだ。10、そして「冷蔵庫の残りもの」。ベースが早く進む。アルバムで没になったという11もいい曲だと思うけれど。12はドラムスのソロが抜群だ。<br />
　13ではディスコ・サボットで、ドラムスがねちねちとリズムを刻む。クラブより、ディスコである。お馴染みの14ではご機嫌なイントロで、中腰演奏で大団円。19時45分。</p>

<p>　「ありがとうございました」。</p>

<p>　でも拍手は終わらない。アンコールが始まる。</p>

<p>　15では、山中さんがベースを披露する。須川さんがピアノを弾くが、アレで、「やめてください」と中止の指示がリーダーから。続いて16を楽しんで、最後の17がいい。アルバム『<a href="http://www.kenyama.net/2009/10/runnin-wild.html">Runnin' Wild</a>』ではカルテットだった演奏を３人、というか山中さんが４人力。ドラムスもぐいぐい来て、ピアノをひくひく。すべて終わって、20時05分。</p>

<p>　終演後のサイン会も長い列ができる。近くのお店で軽く食べる。iPodをつないでもらって、お店のスピーカーでアルバムを楽しんだものだ。</p>

<p>　山中さんはすぐに、ロシア、フランス、ドイツへ旅立つ。日本での演奏は３月のビルボードだ。もう楽しみである。</p>]]>
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    <title>東京都現代美術館は盛りだくさん、なう。</title>
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    <published>2010-02-06T12:41:11Z</published>
    <updated>2010-02-07T01:39:03Z</updated>

    <summary>　ひとつの公立美術館で、一気に2100円を払ったのは初めてかもしれない。東京都現...</summary>
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        <category term="その他" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　ひとつの公立美術館で、一気に2100円を払ったのは初めてかもしれない。<a href="http://www.mot-art-museum.jp/">東京都現代美術館</a>の観覧料だ。それもそのはず。特別展みっつに、常設の特集展示がふたつというラインナップ。<br />
　土曜で、関連イベントもあり、珍しいくらい繁盛している（失礼！）。これならどこぞの現代美術に力を入れている（？）知事も納得だ。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　メニューは以下の通り。</p>

<p>特別展<br />
　「レベッカ・ホルン展　静かな叛乱　鴉と鯨の対話」（2/14まで）<br />
　「MOTアニュアル2010　装飾」（4/11まで）<br />
　「サイバーアーツジャパン - アルスエレクトロニカの30年」（3/22まで）<br />
常設ギャラリー内の特集展示<br />
　「岡崎乾二郎」（4/11まで）<br />
　「クロニクル1945, 1951, 1957　戦後日本美術を見直す」（4/11まで）</p>

<p>　料金体系は、レベッカ・ホルン展だけが別枠あつかい。それぞれ会期が違って、そそくさと2月14日に終わってしまうからかもしれない。1500円のセット券に、半額割引のレベッカ展600円という位置づけ。両方に常設展示の料金が含まれているので、ちょっと損した気分。だから、再入場してみた。</p>

<p>　レベッカ・ホルン（1944〜）は、ドイツ生まれの現代美術の作家だ。日本での初めての個展だという。映像作品とインスタレーションが並ぶ。ヒリヒリとした鋭角的な感覚が心地よい。ゆっくりうごくゼンマイや棒、羽を見つめていると時間の感覚が狂ってくる。男性器が貝に入り込むのを見続けていると更に変な気分に。包丁も好きだ。</p>

<p>　気になったのは「鯨の腑の光」という作品。水面に本人による詩を光で当て、その反射光を室内にちりばめる彼女の特徴的な作品で、文字が光が暗い空間を流れ続ける。金色のつえが上下して水を差す。</p>

<p>　「装飾展」は、東京都現代美術館が毎年開催している若手アーチストを紹介する企画展だ。今回で10回目になる。そのテーマが装飾。<br />
　「美術」の世界ではあまり高く評価されていないフレーズだ。ちなみに日本の装飾古墳はすごく綺麗。</p>

<p>　10人の作家が装飾性を競う。装飾と聞いて「草食」と同じ発音であることに気付く。会場を回って、どことなく「草食系男子」な雰囲気が漂う。そもそも10人のうち女性は2人だけだ（と思う？）。<br />
　単純な印象だが、黒田潔さんの作品は大きな壁に描かれたマンガで、大きさがいい。森淳一さんは気持ち悪いので苦手です。ちなみに6月1日生まれだろうか。<br />
　青木克世さんは、白いデコレーションが印象的。山本基さんの塩のインスタレーション「迷宮」は、ほとんど狂気である。小川敦生さんは石鹸の質感が良い。光が当たると不思議な柔らかさを持った物質に石鹸は変質する。<br />
　塩保明子さんの巨大な紙作品には圧倒された。細かくエッジを効かせた切り抜いた紙とそのシルエットがすごい。思わず室内をうろうろしてしまう。</p>

<p>　「サイバーアーツジャパン」展は、お祭りのような展覧会。<br />
　オーストリアのリンツで開かれるメディアアートの祭典「アルスエレクトロニカ」の30周年を記念した展覧会で、冨田勲、坂本龍一＋岩井俊二、明和電機らが受賞している。<br />
　会場は明和電機の変遷が圧巻。吹き抜けの煙突（？）から紙が飛び出す作品は、牧歌的な参加感が堪らない。岩井俊二さんとヤマハが作った「TENORI-ON」など参加型の展示も多い。</p>

<p>　が、どうころんでも、敵わないのは。宇宙航空研究開発機構（JAXA）による無重力空間で、光るオブジェをグルグル回す様子を映した作品だ。映っている日本人は有名な宇宙飛行士だと思う。世事に疎くて分かりません、ごめんなさい。<br />
　現代美術がアイディアと技術の切磋琢磨、鍛練、訓練だとすれば、無重力空間で物体がどのように回るか、それがどのように映像に写しこまれるかと個人的に夢想しても、まずは実際に実現しない。<br />
　で、この映像は楽しい。次は、宇宙服を着ないまま真空に投げ出された人間を見てみたいもの（冗談です）。</p>

<p>　常設展の特集展示に歩を進める。</p>

<p>　岡崎乾二郎さんは、1955年生まれの現代美術の作家だが、美術批評や教育活動でも知られる。最近では石川県羽咋市に依頼で家も建てたという。<br />
　会場構成自体を本人が監修し、緊張感のある空間になっている。実際に上を歩くことの出来るタイル作品「釉彩陶磁床」もあって、足の裏がもじょもじょする。それぞれにタイルにはひと文字のタイトルが付けられている。<br />
　壁に微妙な配置で並ぶ作品は、どれも明るく、心地よい。</p>

<p>　そして、その一方で「クロニクル1945, 1951, 1957」を見て、痛感するのである。時代と社会をそのまま表現した作品が以前はあったのだ、と。<br />
　鶴岡政男さんの「重い手」（1949）、井上長三郎さんの「東京裁判」（1948）、中村宏さんの「砂川五番」（1955）など、社会的、政治的な状況を、ほとんどそのまま表現している。そして、見るものに政治的、社会的メッセージを確実に届けてくれる。<br />
　美術としては不純なのかもしれないけれど、彼らのパワーは圧倒的だ。戦争画の橋本八百二さんの「ニューギニア作戦」（1944）も偶然に生き延びた作品の僥倖感が漂う。<br />
　身の回りの頑張りとか啓発、作画技術といった些細な問題を突き抜ける「大問題」を、直截表現する作品を見てみたい。日本美術院の展覧会では難しいだろうから、数の多い日展に期待しよう。</p>

<p>　ところで、<a href="http://www.yaf.or.jp/yma/">横浜美術館</a>で、3月3日まで開催されている「束芋」展もいいけれど、2月14日で終わってしまう<a href="http://www.momat.go.jp/">東京国立近代美術館</a>の「ウィリアム・ケントリッジ」展にまず行くべきである。見逃すと<a href="http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/index.html">広島市現代美術館</a>に見に行かないといけない。いわゆる「アニメーション」が、そもそもどういった可能性を秘めていたかを体感できる。時間がかかるので朝一番で竹橋に向かうことをお勧めする。</p>]]>
    </content>
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    <title>ツイッターで妄文</title>
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    <published>2010-01-23T14:31:33Z</published>
    <updated>2010-01-23T14:40:59Z</updated>

    <summary>　ツイッターが流行っている。eWorldでも、Facebookでも、Second...</summary>
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        <![CDATA[<p>　ツイッターが流行っている。eWorldでも、Facebookでも、SecondLifeでも何でもとりあえずは、登録するので登録した。</p>

<p>　http://twitter.com/kenyama/</p>

<p>である。<br />
　140字という制限がいい。原稿用紙で7行。ほぼ三つで１枚だ。削ったり、推敲する楽しみもある。<br />
　そこで、昔から使っているペンネームで、妄想を書き始めたら、これが楽しい。だれもフォローせず、だれからもフォローされないので、140字の原稿用紙がわりだ。<br />
　試しに、まとめてみたら、うーんである。<br />
　交互に書いているのを別々にペーストしたのがいけなかったか！</p>]]>
        <![CDATA[<p>（古い話し）</p>

<p>　海岸線を見ながら、列車は走る。明石大橋が見える。食堂車でビールを傾けながら、見る車窓は格別だ。<br />
　車掌が来たので、岡山に着く時間を確認する。事前に伝えてある時間の通りで、間違いない。内田とホームで話が出来るはずだ。<br />
　二等車はガラガラだったけれど、三等は混んでいる。春の移動シーズンだからだろう。火星からやってきたような団体もちらほら。</p>

<p>　くわえ煙草で内田はホームに立っている。ホームは、禁煙のはずだ。約束の現金を渡す。<br />
「下関に着いたら電報を送る。それまで現金は手もとに置いておいてくれ」<br />
「うん。連絡が遅そすぎたら、飲んでしまうが、約束しよう」<br />
　発車ベルが鳴る。<br />
　デッキのドアを閉める。彼に会うのはこれが初めてで、最後だ。</p>

<p>　関門海峡は暗闇に沈んでいる。漁船だろうか小さな船の灯りは、赤白く左右に明滅する。宿は、市場に近い赤岩荘で、季節外れのふぐが並ぶ。飲み過ぎた身体には、干からびたゴムにしか見えない。芸者のお座敷芸を見ているのが精いっぱいだ。<br />
　駅から電報を打ったので、約束の男に現金は渡ったはずだ。</p>

<p>　取引の条件は簡単だ。現金と引き換えに、われわれは「モノ」を手にする。呉服屋で反物を買うより簡単で、寸法を測ったり、試してみる必要はない。ただ、そのモノは、扱いが厄介だ。<br />
　人間だ。ひる日なたを歩けない。見つかると厄介な人間だ。彼には苗字がないのも特徴だ。</p>

<p>　引き渡しは釜山。明日は、関釜航路で向かう。東京から一枚の乗車券で行けるのが不思議だ。大陸間連絡だそうだ。そのまま花の都、パリまで行きたいところだが、京城までの往復乗車券だ。往復割引があるのが嬉しい。<br />
　現金が榎本に渡っていれば、明日にはご対面だ。どうしたものか？</p>

<p>　国際連絡だけに免税でお酒は安い。パリまで行けないから、せめてワインを飲む。しかし、朝鮮半島北部で日本軍が試験栽培しているブドウを使ったワインで、原料が「ぶどう」であることを認識できるだけの味。<br />
　ボイが電報の紙片を持ってくる。「プサンH1400」。自動的に消滅しないだけ便利。</p>

<p>　初めて来た。釜山港に帰れ、と言われても困るけれど、まず車を探す。指定されたので、一人旅には見えないくらいの大荷物だ。<br />
　日本語が通じるのは便利だが、彼らの朝鮮語が分からないのは不安だ。良くは言っていないことは分かる。<br />
　船は定刻に着いたから、指定された14時には十分間に合う。<br />
　ホテルのレセプションで、また電報を渡される。これからの時代、通信業が繁盛することは間違いなさそうだ。Leeさんに会えばいいらしい。まわりのほとんどが、李さんだと思うが。<br />
　ところで、恩賜の煙草はあまり美味しくない。虎やの羊羹よりはいいが20箱も抱えてきたのは、どういった了見か。<br />
（つづく）</p>

<p><br />
（最近の話し）</p>

<p>　青山通りを渡って、そば屋に入る。鴨せいろ、日本酒は冷たいのを一本頼む。ぐびぐび。<br />
　玲子を待っているのだが、当分来ないだろう。酔っぱらわないように気を付ける。<br />
　真っ赤なワンピースを着て玲子が店に入ってきた。約束の現金を持ってきているはず。<br />
　冷酒はすでに三本空けている。飲み過ぎである。キスをする。<br />
　車に乗って、ホテル・オークラに移動する。部屋は取ってある。久しぶりに会った玲子の身体はきれいだ。<br />
　来週会う約束をして別れる。現金は黄色い封筒に入っていた。</p>

<p>　初めて玲子と会う約束をしたのは、高校２年生の時だった。映画を見に行ったのだ。確か、オードリー・ヘップバーンが主演する映画だったはず。その時は、別件の話で盛り上がり、飲むことはなかった。そりゃ、そうだ。高校生だから、お小遣いもしれいている。飲みたくても、飲めないね。キスだけ。<br />
　青山墓地から防衛庁の辺りを二人で歩いた。桜の季節が綺麗なのは分かっているけれど、墓地と桜ではでき過ぎた。<br />
「とりかえしのつかないことをしよう」<br />
　二人で誓い合った。<br />
　あれから10年以上の月日が経った。二人で泊まるくらいの取り返しはつくが、この現金はちがう。まず、絶対に取り返せない。</p>

<p>　現金は駅前の三菱銀行の貸金庫に預ける。部屋に持って帰ることもない。来週までに解決して、笑って玲子に会いたいと思う。心の底から、そう思う。<br />
　部屋のPower Macintosh 7100に電源を入れる。Welcome to MacintoshのHappy Macが無事表示され安心だ。先週、漢字Talk7.5を入れたばかりで、トラブルが続いていた。eWorldにアクセスして、メッセージを確認する。<br />
　ホテルのミニバーから、ぱちってきた赤ワインを空ける。ボルドーの比較的新しいもので、舌の上で味がふっくらと口腔を満たす感じがいい。<br />
　音無からのメッセージを占めるアイコンが点滅しているけれど、アップル・コンピュータのデザインは、緊迫した状況には似あわない。KDDの国際電話は嫌いだ。</p>

<p>　音無の話しは変だ。約束のお金と引き換えに、ものは手に入るはずで、手付けとか、前払一時金といったものではないということだった。少なくとも先週のファックスにはそう書いてある。<br />
　さらに、追加の条件があるのならまだしも、その先は年が明けてから提示すると言われて、お金を払う人はいない。</p>

<p>　「この話しはなかった事にしよう」<br />
　音無は、返事をしない。無音でも電話代はかかる。大声だと高くなる料金体系をとる電話会社があると楽しいけれど、パケットで料金を取るのと同じことだから、最初に思いついたNTTドコモは楽しい会社だということになる。<br />
「明日、ロスに来られないか」<br />
（つづく）</p>]]>
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    <title>薄利多売から暴利多売、少品種大量生産から多品種少量生産そして？</title>
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    <published>2010-01-04T05:46:00Z</published>
    <updated>2010-01-04T05:52:43Z</updated>

    <summary>　新年早々の銀座線車内。大手メーカー・トヨタ自動車の広告に出くわした。１編成全体...</summary>
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        <category term="その他" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　新年早々の銀座線車内。大手メーカー・トヨタ自動車の広告に出くわした。１編成全体をつかって、ハイブリッドの新車をイメージした赤い丸をモチーフにしたポスターが並ぶ。トレイン・ハイジャックだ。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="ToyotaRed.jpg" src="http://www.kenyama.net/blog/images/ToyotaRed.jpg" width="150" height="113" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
　驚いたのは、それに合わせて、つり革までも取り換えてある。手が込んでいるのだ。シールを張ったのではなく、手で持つ部分が赤いリングになっている。シルバーシートのオレンジのつり革や出入り口の変形つり革はそのまま。<br />
　不景気で減少した売上げ金額だけで、少々の産業をすべて飲み込んでしまうようなマンモス企業の広告で、お正月らしい赤い丸とあわせてとても印象に残る。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　それこそバブル経済を日本が謳歌する前夜の1980年代。高度情報資本主義が花咲き、重厚長大の工業から軽薄短小の情報産業に産業構造はシフトし、それまでの少品種大量生産から、個々人の思考（嗜好）にあわせた多品種少量生産の時代がやってくる、と叫ばれていた（と記憶する）。<br />
　大衆から分衆へ、とか、モノからコトへ、とか、微細な差異の戯れ、とか何とか。</p>

<p>　ところが、いつの間にか日本の産業の主軸は相変わらず、自動車、電器産業のまま。大量の商品を国内ではなく海外に販売し続けた。</p>

<p>　不思議だった。あの騒ぎはなんだったのだろうか、と。バブル崩壊とともに、高度な資本主義は消えてしまったのだろう。カウンター・パートナーだった社会主義計画経済が、ほとんど消えてしまったように。</p>

<p>　一方、情報化だけは進んだ。それも80年代からは想像もつかない規模だ。そう、ソフトの部分では多品種化が進んだ。<br />
　当時、消滅の危機のように言われた日本映画は、スクリーン数やDVD、ネットなど販売チャンネルが増え、山のように作られるようになった。デジタル化で映像を作るコストは激減したためでもある。どっちが先かは分からない。<br />
　パソコンの色を変えてイメージをアップした会社が成功して以来、各社が身もふたもないくらい外側の色にバラエティを持たせるのは、消費者に錯覚を与えるどころか、開き直ったような企業の戦術だ。少品種大量生産には違いないからだ。</p>

<p>　しかし、データそのものを扱うデジタル産業（コンピュータ、金融など）は、暴利多売である。その典型が、一時期、基本ソフトの販売で圧倒的なパワーを見せた米マイクロソフト社だろう。そうそう、薄利多売の象徴のようだったダイエーは、この30年で沈んでいってしまい、未だに苦しんでいる。</p>

<p>　80年代の多品種少量生産は、いわば暴利少売だったが、暴利多売へ、そして、これからは薄利少売なのだろうか。大変そうだ。</p>

<p>　いずれにしても、何だか必要以上の物量で押し付けられているようで、あまり気持ちのいい広告ではありませんでした＞銀座線のトヨタ自動車。</p>

<p>　そんなことより、屋台で食べた焼き鳥のうまいこと。ふふふ。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="AsakusaYakitori.jpg" src="http://www.kenyama.net/blog/images/AsakusaYakitori.jpg" width="150" height="108" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]>
    </content>
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    <title>内田百間の貧乏と貨幣</title>
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    <published>2010-01-01T13:40:30Z</published>
    <updated>2010-01-01T13:44:35Z</updated>

    <summary>　新年を迎えた。今年もよろしくお願いいたします。 　で、さて、以前、福武文庫から...</summary>
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        <category term="百鬼園" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　新年を迎えた。今年もよろしくお願いいたします。</p>

<p>　で、さて、以前、福武文庫から『新・大貧帳』などのシリーズが出版されたときには、驚いた（その後、福武文庫自体が無くなったことにも驚いたが）。<br />
　かつて、漱石全集を岩波書店から出版する際、仮名遣いや活用語尾について「校正文法」を作った百間の旧仮名使いを、新仮名遣いに中村武志が改めてしまったのだ。最後まで旧仮名旧漢字にこだわりつづけた百間が見たら、目をむいて絶句しそうである。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="Green.jpg" src="http://www.kenyama.net/blog/images/Green.jpg" width="170" height="127" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
　写真は全く無関係の空き地である。以前は公園だったはずだ。貨幣とは余り関係なさそうな法人が公園を潰して、空き地にした（？）。</p>]]>
        <![CDATA[<p><br />
　さて、この点はともかくとして、借金王・百間の「借金随筆」を集めたこのアンソロジーはえてして暗くなってしまいそうな借金に関する、極めて明るい随筆になっていた。<br />
　家庭生活とか、内面の苦悩などという「小説」にありがちな表現は一切ないのが、百間の魅力なのであり、そんなことを書くより、もっと読んで面白いことが書いてある。内面の苦悩や何かを書かないで済ます、手っ取り早い方法として、百間は小説ではなく、随筆を書き続けたのではなかろうか。もちろん、単なるカラ元気で書いた訳ではなく、その明るさは、単なる強がりではなくはっきりとした背景によって支えられている。</p>

<p>　「百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相にすぎない。或は、更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものではなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。<br />
　実際に就いて考えるに、吾人は決して金を持っていない。少なくとも自分は、金を持たない。金とは、常に、受取る前か、又はつかった後かの観念である。受取る前には、まだ受取っていないから持ってはいない。しかし、金に対する憧憬がある。費った後には、つかってしまったから、もう持っていない。後に残っているものは悔恨である。そうして、この悔恨は、直接に憧憬から続いているのが普通である。それは丁度、時の認識と相似する。過去は直接に未来につながり、現在というものは存在しない。一瞬の間に、その前は過去となりその次ぎは未来である。その一瞬にも、時の長さはなくて、過去と未来はすぐに続いている。幾何学の線のような、幅のない一筋を想像して、それが現在だと思っている。Ｔｉｍｅ　ｉｓ　ｍｏｎｅｙ．金は時の現在の如きものである。そんなものは世の中に存在しない。吾人は所有しない。所有する事は不可能である。」</p>

<p>　このように百間は書いている。</p>

<p>　かつて、貨幣の問題、言い換えるならば価値はどこからくるかについて、柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』の中で、マルクス『資本論』における「価値形態論」をとりあげ、そこには「命がけの飛躍」があるとしたり、岩井克人が、『ヴェニスの商人の資本論』において、貨幣の背後に一方的贈与という不等価交換の契機をみたり、あるいは、浅田彰が、『逃走論』の中で、メタ・レベルでありながらオブジェクト・レベルにあるという逆説的な媒介としての貨幣をレポートしてみたり、様々な形でお金についての議論が行なわれてきた。もちろん、こうした議論は、マルクスに端を発し、マルクスを読むといった文脈を離れ、意味や記号についての考察や現代思想、批評へと広がっていくが、それはここでは関係がない。<br />
　ここで驚くべきは、お金は交換されることによってのみお金なのであって、ただ持っているだけでは、次の瞬間に交換できるであろうという期待だけしかないので、それはお金ではなく、その期待が、それをお金にしている、つまり「観念上の錯誤」である、という点に百間は今から丁度80年前、1930年にこのことを書いているということだ。</p>

<p>　お金とは何か、が極めて難しい問題であることに、百間は高利貸しとの付き合いに中で身を以て、切実に答えたのであろう。そしてそのことは、百間を神経症の作家とかユーモア作家とラベルを貼ることとは、一切無関係の百間の思想を読む作業だといえよう。</p>

<p>　だが、こうして把握されたお金は、使うこと・借りることにこそ真骨頂があるのであり使うために働いたり（とは言っても、百間が借金のために膨大な量の随筆を書いたから、今こうして楽しめるわけだが）、ましてや蓄めるなどの行為は、百間には考えられない所業なのである。何もないところからお金を生み出し、まだ出来てもいない原稿の稿料をすぐに使ってしまうこと。まさしく錬金術。言うのは簡単だが、実行するのはなかなかしんどい。下手に実行すると、それこそ首をくくらなければならなくなる。当時より、事態はかなり悪化していて「サラ金」などと言うものもあり、殺されてしまうかもしれない（ところが、そのサラ金自体が金融規制とコンプライアンス重視で息の根を止められそうなのだから、怖い）。マネーゲームが流行る今日、お金はどんどん実体化していき、それこそが究極の目的になってしまったりもする。</p>

<p>　以前、話題になった「日本はお金持ちなのだから返さなくてもいいでしょう」というある債務国の誰だかの発言に見られる通り、借りたもの勝のお金の世界である。もう少し違うお金の捉え方を考えてみると良いと思うのだが。その意味で、百間は現代の思想家なのである。</p>

<p>　もちろん、時間とお金の認識をパラレルに並べることは、時間が直線的に流れないことを知ってしまった僕たちには、おもしろいとは思えても、正確だとはいいがたい。しかし、百間がユーモア作家であるとしたら、そのおもしろさは、そこにこそあるのであり、そこに、いま百間を読む意味があるのだと思う。</p>

<p>　Ｔｉｍｅ　ｉｓ　ｍｏｎｅｙ．「時は金なり」。時間は大切なものであり、大事にしなくてはならない。そんな通俗的な解釈とはまったく別の、お金に「大切な」などの余計な意味を付け加えない、それこそ日頃は目にとまらない字義通りの解釈を提示すること。<br />
　また、もしそれ以上に字義通り解釈するなら、ベルグソンのように時間を捉えて、過去とは常に現在に在り、現在において記憶という形で地平をなしている、と言うならば、お金とは常に現在の交換に在り、現在において観念という形で地平をなしている、とも言える。つまり、未来の交換は、決して保証されているわけではなく、すべては現在に掛かっていて、そこから類推するしかない。そして、それは実体的にはどこにも無い。</p>

<p>　とは言っても、こんなふうに百間が考えていたかはともかくとして、「百間を読む」作業は、こんな楽しみが待っている。誰でも知っている「格言（？）」をズラすこと、これを脱−構築と呼ぶのは恥ずかしいけれど、僕はここに、戦前の作家の光を見る。何気ない表現の「明るさ」は、誰にも負けない。この「明るさ」とは、色々なものを照らし、読者をも光らせる「明るさ」のことである。</p>

<p>　夜寝る前に、ベッドの中で読むにふさわしい本である。そう、今日見る夢は「初夢」なのだ。</p>]]>
    </content>
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    <title>ゆきゆきて大晦日、ゆけ年、こい年。</title>
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    <published>2009-12-31T13:19:46Z</published>
    <updated>2009-12-31T16:47:11Z</updated>

    <summary>　年末の街なのに（だから？）、いつもより人は少なく、歩きやすい。季節外れのように...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　年末の街なのに（だから？）、いつもより人は少なく、歩きやすい。季節外れのように思えるイチョウの落ち葉が歩道を埋める。掃除する人はいない。オフィスビル全体がお休みだから。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="tsubame5.jpg" src="http://www.kenyama.net/blog/images/tsubame5.jpg" width="179" height="124" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
　写真は九州新幹線の「つばめ」号。以前は、東京・大阪間を走っていたが、今は八代と鹿児島の間に出稼ぎ中である。再来年には博多まで来るはず。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　21世紀が2001年から始まったように、00年代は来年いっぱいある（はず）。ゼロ世代とかいって、早めにそれを終わらせたい人は、次の意匠、区切り、キャッチコピーがほしいのだろう。10年代。</p>

<p>　1910年だと、夏目漱石が『門』を発表し、雑誌「白樺」が創刊された年。昭和10年だと、1935年で、夢野久作の「ドグラ・マグラ」が発表され、雑誌「日本浪漫派」が創刊した年。<br />
　ちなみに平成は22年で、偶数だけれど区切りは良くない。<br />
　昭和22年は、日本国憲法が施行された。大正に22年はなくて、明治22年は大日本帝国憲法が発布された（翌年、施行）。</p>

<p>　振り返るのは楽である。今になってみれば、クリスマスの航空機テロ未遂の容疑者を疑う情報はたくさん見つかるだろう。悔しいことと思う。でも、「その時」には分からない。地震、雷、火事いずれも、そう。<br />
　すべての因果関係を把握する「神」のような存在があるとして、どれだか楽しいかは疑問。いくら素晴らしいとはいえ、同じ映画を何度観るのにも限界がある。それに、それしか見ないのだから。<br />
　のべ35万時間くらいの超大作なら、２回くらい観るうちに死んでしまうからいいけれど、神だと死ぬことできないから大変だ。</p>

<p>　少しずつ認識して、その必然性を楽しむ余裕が自由。来年はどんなことがあるだろう。と、期待しても分からないので、ケセラセラ。<br />
　どう転んでも、来年だけでなく、次の元号の10年や22年、2110年に何が起こるかなぞ分からないのだから。</p>

<p>　九州新幹線だって、本当に博多まで来るかはその時になってみないと分からない。過去からの類推では、大丈夫だと思うけれど。</p>

<p>　よい落としを、何という変換か！</p>

<p>　良いお年を。</p>]]>
    </content>
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    <title>スピノザ『エチカ』を読む（8）第一部定義8</title>
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    <published>2009-12-25T06:19:44Z</published>
    <updated>2009-12-25T06:20:24Z</updated>

    <summary>　第１部「神について」定義8。永遠とは存在そのもの。 DEFINITIONS. ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　第１部「神について」定義8。永遠とは存在そのもの。</p>

<p>DEFINITIONS.<br />
VIII.  By 'eternity' I mean existence itself, in so far as it is<br />
conceived necessarily to follow solely from the definition of<br />
that which is eternal.</p>

<p><br />
定義<br />
8、永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>　永遠の定義から必然的に出てくる存在とは、神のようなものか。</p>

<p>　「永遠の命」、「永遠の愛」、「永遠の仔」など、永遠をうたうものは沢山ある。日本語だと簡単に言えてしまうし、神と無限に関する宗教的意識とは無関係だからだ。神は無限で、人間は有限。<br />
　無限の定義も含めて考える。何ら前後、左右から制限されない命や愛は、ちょっと怖いこともありそうだけれど、「存在」であれば、ぞんざいに大丈夫。神こそは存在である。<br />
　終わらない何かについて、考えること。これから始まることを考えること。未来と過去を区切らない思考がこれから始まる。</p>

<p>　さて、永遠の真実についての説明が続くが、これは英文のみで。持続と時間では説明できないとすれば、初めも終わりもないので、必然的に永遠だ。</p>

<p>（説明）<br />
Explanation--Existence of this kind is conceived as an<br />
eternal truth, like the essence of a thing and, therefore,<br />
cannot be explained by means of continuance or time, though<br />
continuance may be conceived without a beginning or end.<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>スピノザ『エチカ』を読む（7）第一部定義7</title>
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    <published>2009-12-22T08:28:28Z</published>
    <updated>2009-12-22T08:28:54Z</updated>

    <summary>　第１部「神について」定義7。自由と必然。 DEFINITIONS. VII. ...</summary>
    <author>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　第１部「神について」定義7。自由と必然。</p>

<p>DEFINITIONS.<br />
VII.  That thing is called 'free,' which exists solely by the<br />
necessity of its own nature, and of which the action is<br />
determined by itself alone.  On the other hand, that thing is<br />
necessary, or rather constrained, which is determined by<br />
something external to itself to a fixed and definite method of<br />
existence or action.</p>

<p>定義<br />
7、自己の本性の必然性によってのみ存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されていると言われる。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　自己が原因で、自己の本性の必然性から存在する自由なものは、やはり「神」しかいないのか。スーパーマンのような存在だ。<br />
　必然と強制がほぼ同義である世界。自らが自由であるかの錯覚を抱くものも多そうだ。<br />
　原因と結果の因果関係のセリーにつらなるものは、すべて必然であり、その始原こそが、自由の発端である。ここでも賽は振られるのだ。<br />
　定義１を別の方向から、照らし出す。<br />
　定義も後少しで、次からは公理（AXIOMS）が始まる。そして、やっと「定理」（PROPOSITIONS）になる。道はまだまだ。<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

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    <title>スピノザ『エチカ』を読む（6）第一部定義6</title>
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    <published>2009-12-20T22:44:24Z</published>
    <updated>2009-12-18T08:47:53Z</updated>

    <summary>　第１部「神について」定義。いよいよ神の登場だ。 DEFINITIONS. VI...</summary>
    <author>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　第１部「神について」定義。いよいよ神の登場だ。</p>

<p>DEFINITIONS.<br />
VI.  By 'God' I mean a being absolutely infinite--that is, a<br />
substance consisting in infinite attributes, of which each<br />
expresses eternal and infinite essentiality.</p>

<p>定義<br />
６、神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなっている実体、と解する。</p>]]>
        <![CDATA[<p></p>

<p>　絶対でない無限とは何か、相対的な無限とか、絶対的な有限（これはありそうか！）といった野暮な（？）ことは訊かない。神がある類において無限だと、どこから否定が入り込む。神と否定は無関係だ。<br />
　このことは続く「説明」に記載されている。このポストの最後に英文だけ付け加えておく。</p>

<p>　絶対無限のア・ビーイング。とてつもない「神」。</p>

<p>　言いかえても、すごい。<br />
　無限に多くの属性からなっている実体が神であり、その属性は永遠かつ無限の本質をそれぞれが表現している。</p>

<p>　【神〜実体〜無限に多くの属性〜無限の本質を表現】</p>

<p>　なんら制限や限界のない神がまず有る。神がそうなのではなく、そうなのが神。そこからすべてが流れ出る。あまりに大きすぎて、何も言っていないような気配さえ感じられる。</p>

<p>（説明）<br />
Explanation--I say absolutely infinite, not infinite after<br />
its kind:  for, of a thing infinite only after its kind, infinite<br />
attributes may be denied; but that which is absolutely infinite,<br />
contains in its essence whatever expresses reality, and involves<br />
no negation.</p>]]>
    </content>
</entry>

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    <title>スピノザ『エチカ』を読む（5）第一部定義5</title>
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    <published>2009-12-20T02:23:52Z</published>
    <updated>2009-12-17T06:25:14Z</updated>

    <summary>　第１部「神について」定義5。今度は様態について。 DEFINITIONS. V...</summary>
    <author>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　第１部「神について」定義5。今度は様態について。</p>

<p>DEFINITIONS.<br />
V.  By 'mode' I mean the modifications ("affectiones") of<br />
substance, or that which exists in, and is conceived through,<br />
something other than itself.</p>

<p>定義<br />
５、様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。</p>]]>
        <![CDATA[<p><br />
　様態とは、モードのことである。流行のモードと同じモード。変化して、流行もある。だんだん、身近な感じになってきた（？）。<br />
　実体が変化して、様態。<br />
　しかし、他のもののうちにあったり、他のものによって考えられるものとは何だろうか。<br />
　実体はそれ自身で在り、それ自身で考えられるわけだから、実体は変状すると他の助けがないと考えられない様態になってしまう。<br />
　他によるから、他己原因で、身の回りのほとんどもモノは様態だろう。実体を実際に見たことはないし、属性も見たと言い切る自信はない。<br />
　ところで、「他」とは何に対して他なのか。ほかでもない、ろくでもない。<br />
　自他、というけれど、ほとんど全てが他だろう。自はどこ？</p>]]>
    </content>
</entry>

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    <title>スピノザ『エチカ』を読む（4）第一部定義4</title>
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    <published>2009-12-18T19:45:26Z</published>
    <updated>2009-12-17T05:57:56Z</updated>

    <summary>　第１部「神について」定義4。今度は属性について。 DEFINITIONS. I...</summary>
    <author>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　第１部「神について」定義4。今度は属性について。</p>

<p>DEFINITIONS.<br />
IV.  By 'attribute' I mean that which the intellect perceives as<br />
constituting the essence of substance.</p>

<p>定義<br />
４、属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。</p>]]>
        <![CDATA[<p><br />
　実体の本質を構成するもの、構成しているように知覚されるものが「属性」だ。知性が知覚するのだから、知性のないもの、けものには知覚できない。</p>

<p>　知性とは何か。有限の知性があるとすれば、知性は知性によって制限できるわけだ。ところで、無限の知性とは誰か。<br />
　人間はあくまで有限の知性を持つに過ぎない。</p>

<p>　属性（複数の？）によって構成されている実体の本質は、他のものの概念がなくても形成される実体の本質なのに、属性で構成されていることになるのか。</p>

<p>　ある「人物の属性」と言う時、それは肩書きだったり、性格だったり、その人の特徴を示している。そういった属性の塊（集合体）がその人物の本質になるわけだ。ありとあらゆる形容詞を重ねるとその人の本質が見えてくるのだろう。こわい。</p>]]>
    </content>
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    <title>スピノザ『エチカ』を読む（3）第一部定義3</title>
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    <published>2009-12-17T21:17:34Z</published>
    <updated>2009-12-15T07:18:59Z</updated>

    <summary>　第１部「神について」定義3。実体についてだ。 DEFINITIONS. III...</summary>
    <author>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　第１部「神について」定義3。実体についてだ。</p>

<p>DEFINITIONS.<br />
III.  By 'substance' I mean that which is in itself, and is<br />
conceived through itself:  in other words, that of which a<br />
conception can be formed independently of any other conception.</p>

<p>定義<br />
3、実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　冒頭の定義１と同様な雰囲気の漂う定義だ。実体はsubstanceである。<br />
　それ自身の中にあり、それ自身で考えられるものが、実体だという。実体と自己原因の関係はいかに？　サスペンス・ドラマのような展開を期待したい。substance is self-caused　なのだろうか。<br />
　さておき、概念を形成するのに概念を必要としないのはいいとしても、考える（概念を作る）にしてもそれだけで考えられるもの（概念）は、とても小さいような気がする。あまり大きなものは、他の概念（もの）が混じっていそうだ。<br />
　一方、極端に大きい、馬並みならぬ宇宙並みの大きさがあれば、それだけで考えられそうだ。でも、とても大味そう。<br />
　世界を縦に切るのだろうか、横に切るのだろうか、輪切りは横か？</p>]]>
    </content>
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    <title>スピノザ『エチカ』を読む（2）第一部定義2</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kenyama.net/2009/12/22.html" />
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    <published>2009-12-16T20:40:45Z</published>
    <updated>2009-12-15T06:41:57Z</updated>

    <summary>　第１部「神について」定義２。有限についてだ。 DEFINITIONS. II....</summary>
    <author>
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        <category term="スピノザ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　第１部「神について」定義２。有限についてだ。</p>

<p>DEFINITIONS.<br />
II.  A thing is called 'finite after its kind' when it can be<br />
limited by another thing of the same nature; for instance, a body<br />
is called finite because we always conceive another greater body.<br />
So, also, a thought is limited by another thought, but a body is<br />
not limited by thought, nor a thought by body.</p>

<p><br />
定義<br />
２、同じ本性の他のものによって限定されうものは自己の類において有限であると言われる。例えば、ある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり、思想が物体によって限定されることはない。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　同じ本性のものによってしか限定（limit）されない。言い換えると、限定されているとすれば、本性が同じということ。日本語での物体は、英語のbodyである。<br />
　ところで、どこまで具体的にできるか。醤油はサラダオイルを限定できるか。おそらくサラダオイルは有限だ。ただ、どの類（kind）においてか？　うーん。先へ進もう。</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>『エチカ』を読む（１）第一部定義1</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kenyama.net/2009/12/1-1.html" />
    <id>tag:www.kenyama.net,2009://1.462</id>

    <published>2009-12-15T18:15:13Z</published>
    <updated>2009-12-15T06:21:21Z</updated>

    <summary>　17世紀オランダの哲学者、ベネディクトゥス・デ・スピノザ（1632〜1677）...</summary>
    <author>
        <name>kenyama</name>
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    </author>
    
        <category term="スピノザ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kenyama.net/">
        <![CDATA[<p>　17世紀オランダの哲学者、ベネディクトゥス・デ・スピノザ（1632〜1677）の主著『エチカ』を頭からゆっくり読んでいこうと思う。本当に単に読んでいくだけである。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="portrait.jpg" src="http://www.kenyama.net/blog/images/portrait.jpg" width="156" height="167" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
　原著はラテン語で書かれているが、残念ながらラテン語を学んでから読み始めると、始まりがいつともわからなくなるので、英語と日本で済ます。英語訳は、フリーの<a href="http://www.gutenberg.org/wiki/Main_Page">グーテンベルク・プロジェクト</a>のR. H. M. Elwesさんの翻訳を、日本語訳は岩波文庫の畠中尚志さんの翻訳を引用する。</p>

<p>　早速、第１部「神について」定義１である。</p>]]>
        <![CDATA[<p>DEFINITIONS.<br />
1.By that which is 'self-caused' I mean that of which the<br />
essence involves existence, or that of which the nature is only<br />
conceivable as existent.</p>

<p>定義<br />
１、「自己原因」とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないものとする。</p>

<p>　一時期流行した「自己責任」は無責任な議論だったけれど、ここは「自己原因」である。</p>

<p>　幾何学的秩序に従って論証された論文を目指す本書の冒頭のスタート地点である。賽は振られたのだ。<br />
　何らかのきっかけがないと話は進まない。そのきっかけが自己原因、なんらかの影響もうけず、結果でもなく、そこに「ある」もの、自己原因。自己が原因であるモノ、存在。<br />
　のちのち、それは何らかの名前で呼ばれることになるのかもしれないけれど、今は自己原因としてだけ。<br />
　因果関係の原初点にある存在は何となく分かるが、何だろうか。ワクワクする冒頭だ。</p>]]>
    </content>
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    <title>山中千尋さんから、ひと足早いクリスマス・プレゼント</title>
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    <published>2009-12-15T05:28:17Z</published>
    <updated>2009-12-15T05:34:36Z</updated>

    <summary>　やっと冬らしくなってきた東京の12月は9日。東京・渋谷のJZBratでピアニス...</summary>
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        <category term="山中千尋" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<p>　やっと冬らしくなってきた東京の12月は9日。東京・渋谷の<a href="http://www.jzbrat.com/">JZBrat</a>でピアニスト、山中千尋さんから素晴らしいクリスマス・プレゼントをもらった。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="ChristmasJZBrat.jpg" src="http://www.kenyama.net/blog/images/ChristmasJZBrat.jpg" width="117" height="200" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
　ファースト、セカンドともに時間をオーバーする熱演で、山中節を堪能。初めて聴く曲もあって大満足。次は来年１月30日の<a href="http://www.tokyouniform.com/tokyotuc/">東京TUC</a>。ちょっと遅いお年玉になりそうだ。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　ちょっと早めに会場に到着。コートを預けて、椅子に座る。節酒中である。高級なセルリアンタワーのライブ・ハウスで、男女のカップルも目立つ。サラダをつまむ。健康的だ。</p>

<p>　開演の19時をちょっとまわった頃、両肩の出た紫のドレスで山中千尋さんが登場。光るハイヒールも素敵である。<br />
　早速、今日のカクテルの紹介。ゴディバのチョコレートが入って、シナモン・スティックでかき回す甘いカクテルで、よく分からない色合いと味から「あいまい」と命名された。</p>

<p>　メンバーは、Mark Tourian(b)、岡田圭太(ds)の両氏。<a href="http://www.kenyama.net/2009/11/post-255.html">石丸電気</a>と<a href="http://www.kenyama.net/2009/11/100audi.html">アウディ</a>と続く今秋のトリオ。前回はハロウィンだったが、今日は特段変装の様子は見られない。<br />
　ちなみにマークは、映画『のだめカンタービレ』にシンバル奏者の役で出演し、セリフもあるという。</p>

<p>　演奏したのは以下の通り。</p>

<p>（ファースト）<br />
１、Living Without Friday<br />
２、Carillon<br />
３、Christmas Deams<br />
４、Take Five<br />
５、Cleopatra's Dream<br />
６、Sing, Sing, Sing<br />
７、Tennessee Waltz<br />
８、2:30 Rag<br />
９、Yagibushi</p>

<p>（セカンド）<br />
10、Abuse?<br />
11、All Of Me<br />
12、These Foolish Things<br />
13、Invisible Friends<br />
14、Airmail Special<br />
15、Antonio's Joke<br />
16、Liebesleid<br />
17、RTG<br />
18、Aquarian Melody<br />
19、Taxi<br />
20、Yagibushi</p>

<p><br />
　会場が静かだとつぶやいてから、カクテルの紹介。美味しそうだ。レントゲンをとったところ、左頚椎の動脈がみつからなかったそうだ。大丈夫なのだろうか。</p>

<p>　最初の１から全開だ。ベース・ソロかと思えば、ピアノとドラムスが、音の応酬を始める。鍵盤の肘打ちも登場。ドラムス・ソロも楽しい。２はさわやかなオリジナル。アルバム『<a href="http://www.kenyama.net/2008/10/bravogue.html">Bravogue</a>』では、特典DVD「ニューヨーク観光案内」（？）のバックに流れた佳曲で、うたいながら演奏する山中さんは素敵である。当然、CD収録バージョンより力強い。</p>

<p>　３は「今日、思いついた曲」ということ。心地よいクリスマス気分を楽しむ。ペトルチアーニのアルバムに収録されている。４は、スタンダード。くっきりとしたピアノ・ソロとちょっと変わったドラムス・ソロが楽しい。</p>

<p>　すごいスピードで展開するめくるめく夢、クレオパトラの夢である。「School Days」のフレーズも絡まってご機嫌である。６も最後まで力の入った演奏。公園で大騒ぎだ。</p>

<p>　７からは、アンコール（？）のサービス曲で、まずは山中さんがベースを披露。マークはピアノを弾くけれど、ミスが多く、山中さんから注意される（笑）。８は軽やかに楽しい。猫踏んじゃったも入ってきた。最後は会場からリクエストのあった９でしめる。８から繋がり、一気にスタート。激しく終了。20時27分。時間オーバー。</p>

<p>　通しの人も多いが、入れ替わりの行列も続く。</p>

<p>　21時45分、黒い片肩の見えるワンピースに着替えて、山中さんが登場する。綺麗である。</p>

<p>　10は新作『<a href="http://www.kenyama.net/2009/10/runnin-wild.html">Runnin' Wild</a>』で没になった曲だという。各パートがどんどんソロをとり、とても長くなってしまい編集できなかったのが理由らしい。どこかしっとりした雰囲気で、スタートを切るけれど、ガンガンになる。グー！　11は、歌いながら転がるようなピアノに耳を傾ける。ベース・ソロもいいし、ドラムス・ソロの芸も楽しめる。<br />
　12もスタンダード。しっとりとしつつも、歯切れの良いはっきりしたピアノがいい。13は久しぶりに聴く曲。デビュー・アルバム『<a href="http://www.kenyama.net/2004/01/living-without-friday.html">Living Without Friday</a>』の収録曲。CDより早いテンポで、嬉しくなる。</p>

<p>　14は一人で何役もの演奏をする大活躍のピアノ。グルーヴが効いて、めくるめくリズムのシャワーを浴びる。15は、山中さんいわく「昭和歌謡のよう」だそうだが、大好きな曲。ベース・ソロがかっこいい。16はドラムスが音楽を追い立てていく感じが印象に残る。</p>

<p>　ここで終わるはずが、「ちゃんとやりますよ」とアンコールがスタート。ガツンと17、素敵なメロディーが大好きな18、<a href="http://www.kenyama.net/2004/01/when-october-goes.html">セカンド・アルバム</a>の冒頭曲の19ときて、最後はファーストと一緒で八木節だ。23時半。</p>

<p>　たくさんの曲を、堪能できたクリスマス・イブ^16だった。</p>

<p>　焼き鳥とホッピーはこれからなのである。</p>]]>
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